気付かれぬように、毒

 本人から直接聞いたわけではなかったが、どうも、名前は無事に就職できたらしかった。毎朝七時が過ぎた頃に――きっと朝のニュースの頭だけ見て出勤しているのではないか――軽い足音が聞こえてきて、部屋を出て行く音がする。
 名前がドアに鍵を掛け、彼女の足音が遠のいて聞こえなくなった頃、サイタマもゆっくり動き出した。テレビを見ている限り、今のところ大きな災害は起こっていないようだった。しかしサイタマはC級ヒーローで、C級ランクのヒーローは週に一度は正義活動をしなければならないというノルマがある。今日明日には何らかの人助けをしなければならない為、その内パトロールに出なければならなくなるだろう。


 結局、時刻が正午を回っても、テレビから怪人の襲撃が知らされることはなかった。以前ジェノスが言ってみせたように、テレビで怪人の発生が知らされるのは、対処がままなっていない大災害の時が多い。そして地域を問わず放映されるので、ニュースで怪人のことを知っても現場に赴いた時には間に合わない、なんてことも多々ある。やはり、自分の足で困っている人を探す方が手っ取り早いのかもしれなかった。
 夕方に差し掛かった頃、サイタマは漸く動き始めた。どうせ夕食の買い出しもしなければならない。ヒーロースーツを着て、ジェノスに一言断りを入れてから家を出る。特に召集の無い時、彼はS級ヒーローでなく家政婦サイボーグとなるのだ。悪い気がするが、ジェノスの方で勝手に居着いているので致し方ない。

 人通りの多い方へ向かいながら、サイタマはぼんやりと考えていた。夕食をどうするか決めかねていたのだ。そろそろ夏も終わりだ。鍋物を候補に入れても良いかもしれない。今日のメニューをそれにするかどうかは別としても、鍋は色々と楽で良い。調理とか、片付けとか。
 まあ、何が安くで売っているかで決めるのが良いだろうか――サイタマが一人頷いた時、少し先から地響きのようなものが伝わってきた。サイタマは顔を上げ、人波に逆らいながら一直線に走り出した。

 物音の先では怪人が暴れ回っていた。店のガラスが割れていたり、街路樹が圧し折れていたりと、それなりにひどい有様だ。近場にヒーローが居なかったのか、既にやられてしまっているのかは解らないが、一般人の姿はちらほら見えるものの、ヒーローらしき姿はない。
 ふと気付けば、へたり込んでいる女性の前で怪人が拳を振り上げていた。しかしその手が振り下ろされる前に、サイタマは難なく立ち塞がる。受け止めた拳をそのまま握ってやれば、怪人はぎゃあと悲鳴を上げた。
 やかましく喚き立てている怪人をいつものように一撃で倒してから、サイタマは小さく溜息をつく。確かに今の怪人は見た目からして小者っぽかったが、手応えがなさすぎやしないか。プロになったとはいえ、ヒーロー活動なんて所詮は自己満足だ。サイタマは依然として、強い怪人と戦って刺激が味わえればそれで良いと思っている。まあ、流石に人前で口には出さないが――。
 手袋に付いた血をぴっぴと振り払いながら、スーパーに着くまでに乾けば良いなと考えていた。血を滴らせながら食品売り場に行くのは気が引ける。サイタマが再び小さな溜息を吐き出した時、後ろから声が掛かった。そう言えば、女性を助けたのだった。「サイタマ……君?」
 サイタマが振り返ると、そこに座り込んでいたのは名前だった。ぽかんと口を開き、サイタマを見上げている。

「……おー」一瞬、口籠った。「名前か。無事だったか?」
 サイタマがへらりと笑うと、彼女はおずおずと頷いた。どうやら仕事帰りらしくスーツに身を包んでいる。パッと見、大きな怪我は見当たらない。腰を抜かしてしまっただけだろう。
「え、サイタマ君? えっ?」と、彼女の口は忙しなく動いていた。その視線はサイタマとその後ろの怪人の残骸を行き来していて、サイタマは思わず笑ってしまった。
「怪我はないか?」
「う、うん……」
 サイタマが手袋を外し、それから手を差し出すと、彼女はゆるゆるとその手を握り、引っ張られるままに起き上がった。その目は未だ、怪人だった物体に向けられている。
「サイタマ君、本当にヒーローだったんだね……」
「なんだよ、信じてなかったのか?」
 笑いながら尋ねれば、名前は首を振った。「ううん」
「吃驚しちゃった。一撃で怪人を倒しちゃうんだもの……サイタマ君って、実は凄く強かったんだね」
「はは。だろ?」
 いたく感嘆したらしい彼女は、もう一度「凄いね」と口にした。

 困った事があればいつでも俺を呼べよと言うと、名前は笑って頷いた。「それじゃあ、今度怪人に襲われた時は、サイタマ君を頼っちゃおうかな」
 送っていこうかと申し出たが、名前は首を振った。どうもこれから行くところがあるらしい。気にはなったが、彼女の笑みに苦いものが混ざり始めたので、サイタマは食い下がらなかった。名前とはその場で別れる。「名前、本当に俺を頼れよ。相手が何でも、すぐにぶっ飛ばしてやるからな」

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