トラジエントが手を伸ばす

 星が飛ぶ、とはよく言ったものだ。
 眼球のすぐ側で、白い何かが明滅しているような。そんな具合だった。寒空に浮かぶ星のように、チカチカ、チカチカと。

 頭蓋が割れたのではないか、あまりの激痛に名前はそう錯覚した。実際はそんなことはない。ただ、力任せに床に頭を押し付けられたおかげで、どうやら皮膚の一部を損傷したらしかった。満たされている人工海水に、名前の血がふうわりと漂う。滲み出したその匂いを嗅ぎ取ったようで、ごく間近に迫るサカマタの、その薄桃色の舌がピクリと揺れ動いたのを名前は目撃していた。それはちょうど、獲物を見付けた時の身動ぎに似ている。
 ここが陸地でなくて良かった。でなければ、もっと酷い怪我を負っていただろう。そんなことを考えている場合ではないことは明白だったが、名前はそう思わずにはいられなかった。現実逃避を望む表れかもしれない。
「サ、カ……マタ、さん」
 呻き声ともとれるような声にならない声でそう呼ぶと、眼前の男は、漸くその手で名前の額を掴むのをやめた。サカマタは、名前の頭を握り潰そうとしていたのかもしれない。良い気はしない。ひどく緩慢としたスピードで、彼の右手が離れていく。
「でら震えているな」
 サカマタはそう言うと、小さく笑ったようだった。 どうやら、機嫌が悪いわけではないらしい。サカマタの四つ目はいつもと同じようにアイパッチに隠されているから、彼がどんな表情をしているのか読み取り辛い。突然の暴力に、自分が何か粗相をしでかしてしまったのかと、名前は気が気ではなかった。しかし彼のその声音からして、どうやら怒っているわけでも、叱られるわけでもなさそうだ。むしろ、サカマタの声にはある種の喜びすら滲んでいた。

 未だ起き上がれずにいる名前は、唐突に自身の状況を理解した。それも、ごく正確に。
 サカマタはもう、先程のような暴力は振るわなかった。そのつもりもないらしい。身を屈め、覆い被さるようにして名前に手を伸ばす。彼は名前の胸部の上の辺り、人間でいうと鎖骨のちょうどすぐ下辺りに掌を乗せた。じんわりと、サカマタの熱が伝わってくる。彼の指の先が首筋に触れると、肢体に痺れが走ったようだった。彼の優しげなその手付きが、名前にはひどく恐ろしく感じられた。
 瞬く星は、既に消えていた。
「な、何、な、な……」
「『何』、だって?」
 今度こそ、サカマタは声に出して笑ってみせた。ハハハと喉を震わせる。
「名前、おまえも命令されたろう? 俺だって、一人じゃあ仔は作れないんでね」
 胸部に置かれた手に、ぐっと力が籠もったようだった。息が詰まる。
 本能的に名前は悟った。逃れることはできないと。シャチは普通、群れを作って行動する生き物だがサカマタは違う。海洋に居た時も、彼は一人で生きていた。それに、此処とは違うが水族館で生まれた名前とは、ありとあらゆる面で大きな差があった。逃げることは、できない。
 水族館において、子供の生物はひどく人気がある。種類によっては、それだけで客引きができるほどに。丑三ッ時水族館にはシャチが二頭しか居なかったから、それを増やす意味でもあるのだろう。――サカマタと交尾をして子を産め。名前はそう命令されていた。館長の命令は絶対だ。例え自分の意にそぐわなくても。実に意外なことだが、この状況から察するに、サカマタの方はそれほど嫌がってはいないらしい。むしろ乗り気だ。
 元野生のシャチである彼からしてみれば、名前のような温水育ちは気に喰わない筈だ。交尾の相手としては。わけが、わからない。

 名前が感じている恐怖のその全てを、サカマタは余すところなく理解しているようだった。先よりも呼吸が浅くなり、いっそう体は震える。そんな名前の様子を見てだろう、現れた彼の目は愉快げに細められていた。細々としたあぶくが、天井へと昇っていく。
「サカマタさ、なん、変身……」
「んん?」
 上手く言葉にならなかった。しかし、サカマタは特に気にした風もない。
 名前は無意識の内に、サカマタの手を掴もうとしていた。しかし実際は、胸元まで伸ばされたその腕の、スーツの袖を握っただけだった。びくともしない。
「どうして変身したままなのかと、そう聞いたか?」
 竦み上がっている名前は、頷くことさえできなかった。サカマタの顔を見ているだけで、そうして気を失わないようにしているだけで、精一杯だったのだ。どうやら彼は、無言を肯定だと捉えたらしい。
「でら愚問だな」サカマタが笑う。
「そうでなけりゃあ、怯えるおまえがよく見れないだろ?」

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