十年来の

「はいセリム様、お口を開けて下さい」
 名前がそう言えば、セリム・ブラッドレイは素直に口を開けた。喉に異常無し。ついでに虫歯も無し。風邪を引いたとのことだったが、どうやらブラッドレイ夫人の取り越し苦労らしい。もっとも診察前に解っていたが。
「はい、結構です。どこにも異常はありません。至って健康ですよ」
「本当ですか?」セリムが叫ぶように言う。「わあい!」
 名前は微かに笑みを浮かべながら、診察道具を脇に置く。不器用な手付きでボタンを嵌めているセリムの姿は、そこいらに住んでいる子供と何ら変わりなかった。一つ一つ、ゆっくりとシャツのボタンを嵌めていく。名前の視線に気付いたセリムは、不服そうに眉を寄せ、「やって下さい」と白い胸を突き出した。一も二もなく了承する。
「セリム様、風邪を引かれることってあるんですか」
「おや、人造人間に興味が?」
 至極どうでもよさそうにセリムは――プライドは薄らと笑った。「ありませんね」
「発熱、鼻炎、吐き気……どれも覚えがないものです」
「へええ」名前は半ば羨望の気持ちで口にする。「それは羨ましい。医者いらずですね」
「あははっ! お医者様は名字先生の方じゃないですか」
 くすくすと愉快そうに笑うその様子は、やはり一般的な十歳の少年と大差なかった。ボタンを嵌め終える。「医者の不養生という言葉もあるでしょう」と言えば、「主治医の口から聞きたくない言葉ですね」とプライドはますます笑った。
「それで、どうなさいますか。風邪ということにして、薬も処方しておきましょうか」
「ええ、是非そうしてください。お母さんもそれで納得するでしょう。しかし名前、風邪を引いていない者に薬は毒ではないのですか?」
「ただの栄養剤ですよ」
 何がつぼに入ったのか、プライドはますます笑った。

 名前とプライドの付き合いは長かった。具体的に言えば、プライドがセリム・ブラッドレイになる前からの付き合いだ。医者の卵だった名前は、金歯を嵌めた恩師に言われ、彼付きの医者となった。何でも、主治医の変更を求めたのはプライドの方かららしいが。後にプライドに尋ねれば、「どうせなら下卑た爺より、若い女性の方が良いじゃないですか」との答えが返ってきた。この人でもそんな俗っぽい考えを持つのかと、妙に親近感が湧いた覚えがある。
 家族や友人というものを持たず、あのお方の為だけにひたすらに医の道を進んでいた名前にとって、人造人間の相手をすることくらいどうでも良かった。むしろ、彼のご機嫌を取っているだけで金が転がり込んでくるのだから、これほど楽な仕事は無い。まあ何かしでかせば一瞬にして首が飛ぶだろうが、名前には捨てられて困るものはなかった。
 人間に塗れて生活していく以上、人造人間としての違和感はどうしても出てくる。そのため、全ての秘密を知った主治医という存在が欠かせないのだ。健康診断やカルテの捏造を行い、プライドが人間であると証明することが名前の仕事だった。
「お母さんにも困ったものです。あの人は心配が過ぎる」
「それだけセリム様が愛されているということでしょう。羨ましいことです」
「貴方達人間は、すぐそうやって愛だのなんだのと口にし、煙に巻く」プライドの言葉自体は突き放したような冷たさがあったが、彼自身にはさほど気に障った様子はない。むしろどことなく嬉しそうにすら見えた。本人は気付いていないかもしれないが。「まあそれがあの人の役割なのですから、ラースも良い判断をしたものです」
 名前は愛想笑いを浮かべたが、やはりプライドは気付かなかったようだった。
「ねえ名前、セリムが重い風邪を引いたということにして、貴方の所へ行くことはできませんか」
「セリム様、つい先月もそう仰って、入院なされたじゃないですか」
「ほんの二、三日だったでしょう。それに、あれは足の怪我という話でした」
 プライドはセリムを演じることに辟易している。その息抜きを、時々こうして名前に求めるのだ。「別に、そうなさりたいのなら構いませんが、護衛のお兄さん方はついてくるでしょう。私は嫌ですよ」
 元から本気ではなかったのだろう、プライドは眉根を寄せ「つれない人ですね」と言うだけだった。
「あまり医者にかかると、セリム・ブラッドレイに病弱というレッテルが貼られますよ」
「その方が同情は集まるでしょう。貴方は考えが足りない」
 プライドに皮肉られても、名前は少しも気にならなかった。
「あと二週間もすれば、ちょうど良い頃合いですよ。その頃に麻疹でも水疱瘡でも患って下さい」
 少年の姿をしたプライドは、名前のその言葉に目をぱちくりと瞬かせ、それから大声で笑い始めた。名前には彼が何故そこまで笑うのか、訳が解らなかった。

 腹を押さえて笑う少年は、何百年も生きてきた人造人間には到底思えなかった。プライドはプライドの時も、セリムとして猫を被っている時も、無邪気に笑ってみせる。本気で笑っている時も、作り笑いの時も、彼の笑みには一切の邪気が無いのだ。それはおそらく、彼が人間というものをどうでも良いと思っているからなのだろう。彼はどこまでも傲慢だ。そして、名前は彼のそんな笑顔を好ましく思っていた。
 笑いが収まってきたプライドは、名前が自分を見詰めていることに気付き、「私が笑うのがそんなにおかしいですか」とこれもまた笑い交じりに問い掛けた。
「いえ……随分と可愛らしいお顔でお笑いになるなと、そう思っただけです」
「は」
 セリムの顔から笑いが引っ込んだ。


 地雷を踏んだのだろうかと、一瞬だけヒヤリとした。今日が命日になるかもしれないとすら思った。しかし、プライドは名前を殺す気はないようだった。少なくとも、殺す気は。「とっ」プライドが言葉を詰まらせる。
「年上に向かって、可愛いとはなんですか!」
 そう言って名前を叱り付けるプライドは、狼狽しているように見えた。心なしか顔も赤い。まさか風邪引いたんじゃないだろうなと、少し心配したが、どうもそうではないようだった。
「さっさと出て行きなさい!」
 今やプライドの顔は真っ赤に染まっていた。十年来の付き合いだが、これほど表情を露わにしたプライドは初めて見た。殺す気もないようだが、怒っているようにも見えなかった。もっとも、いつその気になるかは解らない。名前は「お付きの人に薬を届けますから、ちゃんと食後に飲んでくださいね」と言おうとしたのだが、彼の足元で影が蠢き始めたのを見て退散することにした。

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