さあ、光の中へゆこう

 名前はもう二ヶ月前の名前ではなかった。ヒーローが何なのかも知っていた。
 ヒーローとは、人間を怪人やその他の災害から守る為の存在だ。ヒーロー協会なんてものもあり、今は確か、プロヒーローは五百人ほど居た筈だ。人間はか弱く、脆く、壊れやすい生き物だから、誰かから守って貰わなければ生きてゆけないのだ。市民を守る存在、それがヒーローだった。
 ヒーローとは怪人から人間を守る為の存在であって、怪人の域に括られる名前がなっていいわけがない。

 しかしそんな小学生でも解る常識を、無免ライダーは少しも理解していなかった。
 名前にヒーローになってみるのはどうかと勧めた彼は、それを素晴らしく良い思い付きだと思っているようだ。ヒーローを長く続けていると、一般常識が抜け落ちてしまうものなのだろうか。
「それは……おかしいんじゃ、ないかしら」
「どうしてだい?」
 呆気に取られていた名前が漸く言葉を紡ぐと、無免ライダーは不思議そうに首を傾げる。
「どうせ趣味を持つなら、誰かの為になる事の方がずっと良いよ。俺もヒーローを始めるまでは知らなかったが、誰かに感謝されるのは良いものだよ」
「いや、そういうんじゃなくって……」
 名前は途方に暮れた。無免ライダーはいつもこういう言い方をする。決して強制力があるわけではないのに、結局のところ、名前は彼の言葉に従ってしまうのだ。しかし流石に、ヒーローになるというのは――。

「まあ、考えてみると良い」
 そう言って立ち上がった無免ライダーは、いつの間にか夕食を食べ終えていた。御馳走様でしたと手を合わせる。食器を手にして背を向けた彼は、「どうせなら共通の話題が欲しいと思うよ、俺は」と独り言のように言った。それから食器を流しへ運ぶ。後は私がやっておくわと言えば、無免ライダーは助かるよと笑った。風呂場に消えた彼を見詰めながら、名前も立ち上がり、食器を水に沈めた。
 人間は便利なものを沢山作る。その最たるものが水道だ。
 名前達海人族と同じように、人間にも水は欠かせない。彼らはいつでも清潔な水が飲めるよう奔走した。しかも、冷水だけでなく温水まで自在に出せるというのだから驚きだ。無免ライダーの言ったことには、冬場には手がかじかむから、お湯は絶対に必要なのだという。名前には温水は必要なかったが、彼らの水に対する執念は称賛に値すると思う。
 食器を洗うのも随分慣れた。無免ライダーに教わった通り、スポンジで洗剤を泡立て、汚れを落としていく。習った当初は皿を割ってしまったり、水掻きに引っ掛かって上手く洗えなかったりと苦労したが、今では余所事を考えながらでも皿洗いができる。所帯染みているなあと思いながら、先程無免ライダーが言ったことを反芻した。
 ――そもそも彼は、名前が怪人だということを解っているのか? そして本当に、怪人の名前が「ヒーロー」になることを勧めているのか?


 名前が食器を全て拭き終えた頃、無免ライダーも風呂から出てきた。下着一枚きりしか身に付けていない彼は、無防備の極みじゃなかろうか。その体は鍛えられていて、そこそこがっしりとしてはいるのだが、どこか弱々しく映る。いつもライダースーツを纏っているせいで、日に焼けていないからだろうか。
「名前さん、すまないけど手伝ってくれるか」そう言った彼の手には軟膏がある。
 床に腰を下ろした無免ライダーの傍らに跪き、つんとした匂いのする小容器を受け取る。それから彼の指差す箇所に、ぬとりとした軟膏を塗り込んだ。右肩が赤く腫れ上がっている。痛々しい。どうしたのかと問えば、登っていた木から落ちてぶつけたのだとか。子猫が木から降りられなくなっていたそうだ。放っておけばいいのに。
「そんなに酷いかい?」
「まあね」赤く腫れている部分を少し押さえる。「痛いんでしょう」
「多少な。まあ骨はどうともなっていないようだから大丈夫だよ」
「あっそ。こっちはどうしたの?」
「こっち?」
「青痣になっているわよ」
 左の腰辺りに広がる痣を擦れば、無免ライダーはぶるりと震えた。どうやら、まだ触れば痛むらしい。「覚えがないな」
 名前は溜息をつき、腰の方にも軟膏を塗り付けた。

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