一、二週間ほど一緒に暮らして解ったのは、ロクゴーは置いていかれること自体に恐怖を感じているのではなく、名前に見捨てられることを一番に恐れているらしいという事だった。どちらも似たようなものだが、微妙に違う。
 不思議なのは、彼は家を捨ててきた筈なのに、どうして自分が捨てられるのを恐れているかということだ。
 彼の生い立ちやこれまでの経緯について、名前はあまり詳しく聞いてはいなかった。ロクゴーの傷を抉ることになりかねないし、そもそも彼自身に対する興味自体がさほどない。ロクゴーは、昔のことを話したがらなかった。何故彼が名前にこうも執着を示すのか、解るようでいまいち解らない。


 そう言えば、彼の過去を考える上で一つ大きな要素があった。名前がそれを知ったのは、彼が居候となってから初めての休日だった。
 ――彼は怪我が早く治るという、非常に特異な体質をしていた。
 早く治ると言っても、常人が完治に三日かかる怪我が一日で治るとか、そんなんじゃない。切れた傷口は瞬く間に塞がり、跡形もなく消え去る。そういう早さだった。

 その日、名前はロクゴーに料理を教えていた。彼は名前が出勤している間、いつも留守番をするしかない。今はコンビニの弁当やらおにぎりやらで済ませているが、ずっとそれを食べさせているわけにもいかない。すると結果的に、彼自身が料理を覚えるのが一番の解決法だった。ロクゴーが乗り気だったのは幸いだ。ついでに、帰宅した時に夕飯があったら良いな、という打算も多少あった。
 今のロクゴーは電子レンジで弁当を温めることができるし、湯を沸かしてカップ麺を作ることもできる。
「左手は猫みたいにしろよ」
「ねこ」
「あ、あー……指先を丸めて、そうそう。そうしないと指切るからな」
 作っていたのはカレーだった。名前は元から料理が得意な方ではなかったので、教えると言っても本当に基本的な事だけだ。具材を切るとか、野菜を炒めるだとか。カレーなら簡単だし、滅多なことでは失敗しないからそう決めたのだ。
 ロクゴーは不器用ではなかった。器用だとも言えないが、ピーラーで皮を剥くのは上手くできていた。ただ、人参が予想以上に固かったのか――もしくは名前の教え方が悪かったのか――勢い余って指先を削ぎ落としてしまった。噴き出る血液に、ロクゴーの顔が歪んだ。同時に名前の顔も。
「ロクゴー、ちょっと待ってろよ」
 先日ロクゴーが家に来た時には見付からなかった救急箱だが、今はちゃんと解りやすい所に置いてある。木箱を抱えて駆け戻ってみると、意外なことにロクゴーは泣いても喚いてもいなかった。けろりとしていた。人参は赤く染まっている。
「随分我慢強い奴だな……おい、消毒するぞ。まずは手え洗え。痛いだろうが覚悟しろよ」
「名前さん、俺、もう治ったよ」
「あ?」
 名前を見上げるロクゴーは、そう言ってから流しで手を洗い始めた。血がみるみる内に流れていき、後に残ったのは傷一つ残っていない小さな手だけだった。名前は目をぱちぱちさせて、何度もロクゴーの指先を見た。何もない。 
 ロクゴーが言うには、自分は特異な体質をしていて、怪我をしてもすぐに治ってしまうのだとか。どこか得意そうにしている彼を見ながら、名前はこの少年と出会った日に足の傷が消えていたのはそういうわけだったのだなと思い返していた。どうやらあの怪我は、見間違いではなかったらしい。

 変わった体してんだなと言った時、ロクゴーの目付きは一変した。
「お……」ロクゴーは口籠った。「俺をき、きらわないで」
「……あ?」
 元から血色の良くない彼の顔が、更に蒼白になって名前を見上げていた。その目には恐怖が映っている。何か踏んでしまったらしいと、気付くのは結局地雷原に歩き出した後だった。どうにも止められない。
 ロクゴーは自分のその特異な体質――怪我がすぐに治る、その体質を気にしているようだった。いや、「気にしている」などという言葉では言い表せない。疎んでいるようにも、憎んでいるようにも感じられた。怪我をすることがないなど便利で良いと思うのだが、そういうわけにもいかないらしい。気味が悪いとかなんとか、言われてきたのかもしれなかった。
「別に」名前は考えながら言葉を紡いだ。「嫌いやしねえよ。むしろ羨ましいぜ。何だ? 医者いらずか?」
 消毒はしなくて良いのかと問えば、漸くロクゴーの顔に血の気が戻った。名前に嫌われたからと言って、この少年に何の不利益があるというのか。確かにこの部屋に住めなくはなるかもしれないが、それでも冬の街をほっつき歩いていたこいつが恐れるようなことでもない筈だ。この少年がどんな生活を送ってきたのか、考えれば考えるだけ底なし沼に沈んでいくような気がした。

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