みそっかすの黒ウサギ

 虐待されていた家出少年を保護したその翌々日、名前はいつもと同じ日常を送っていた。朝早くに家を出なければならなかった為、ロクゴーは起こさず、そのまま家を出てきた。文字が読めないかもしれないという考えに至ったのは、遅い昼食をとっている時だった。
 名前は一人残される彼の為に、書置きを残してきていた。しかしもしそれが読めないとなると――。
 電話を掛ければ良かったのかもしれないが、結局のところ、名前には解らないのだ。実験体として好き勝手に行動を制限されてきた少年の気持ちなど。まあ腹が食えば冷蔵庫を探すだろうし、そうでなくても彼は根の強そうな少年だったから、一人で何とかするだろう。

 名前は要領が良いとよく言われた。その評価は正しくもあり、間違ってもいる。
 確かに名前は、自身のことであれば大抵そつなくこなすことができた。しかし、それは偏に名前の許容範囲が人より広いからに他ならなかった。名前は大抵のことを「まあいいや」ですます事のできる人間だった。他者から見れば失敗の範疇であることも、名前にとってはそうではないことも間々ある。もちろん、名前が綿密な計画を練らないわけではなく、ただその計画の全容が、他者から見れば受け入れ難いこともあるのだ。

 名前が66号の立場だったら、例え字が読めなかったとしても、家主が居なくとも構わずに食べ物を漁っただろうし、まさか他の全てを我慢して男の帰りを待たなかっただろう。名前の帰りを認めたロクゴーは、色々と崩壊した。具体的に言えば涙腺と尿道が崩壊した。


 仕事を終え、いつもより早足で家に帰り着いた名前は、いつものように鍵を刺し込んだ。いつもと決定的に違ったのは、自宅の玄関に痩せぎすの少年が立っていたことだった。一瞬どきりとするが、すぐにその子供が自分が居住を許可した家出少年だということを思い出す。「なんだ、出迎えか?」と名前が言った。殊勝なことだなと笑えば、目の前の少年、ロクゴーの、その目が潤み出した。
「おいおい、おかえりの一言くらいねえのか? ん?」名前はまだ異変に気付かない。
「名前さ」ロクゴーは、泣き出した。「名前さァん」
 五歳の少年が泣くように、わんわんと声を上げてロクゴーは泣き始めた。名前がぎょっとしたのは、ロクゴーの股から熱い液体が流れているからではない。何故こうまでして、この少年が自分を求めて泣くのかさっぱり解らなかったからだ。

「……おい、おい。泣くな? な?」
 ドアを閉め、靴を何足か避難させた後、名前はただただ困惑してそう言った。何をどう慰めればいいのやら。誰かを慰めた経験が無いではないが、中学生を慰めたことはなかったように思う。玄関マットを敷いていなくて良かったなあと思いながら、ハンカチでその顔を拭った。一瞬泣き声が止むが、それでもロクゴーは泣いていた。
 一向に泣き止まないロクゴーを前に、名前はがしがしと頭を掻いた。
「解った解った、ちょっとそこで待ってろ、動かずに。な?」
 一頻り泣かせてやれば良いのだ。考えてみれば、彼は名前と会ってからこの方、一度も泣いていなかった。彼の境遇を考えてみれば、今までがおかしかったのだ。色々と溜まっているに違いない。泣いて済むならそれが一番だ。
 ただ、漏らしたままでは具合が悪いだろう。何か拭くものを持ってきてやって、それから風呂も沸かしてやろうと、名前はそう思った。しかし彼の脇を通り過ぎようとした直後、ロクゴーが大声で叫んだ。「いっちゃやだあ!」
「やだ、やだ、名前さん、いや、やだ、置いて行かないで!」
「……おい、ロクゴー、大丈夫だ。別にどこも行かねえよ。しかし、何か拭くもんをだな」
「俺を置いてかないで!」
 ぎゅうとしがみ付かれ、動こうにも動けなかった。この細い体にこれだけの力が入るものかと、ある種感心してしまう。結局、名前はその場から動かず、泣きじゃくるロクゴーの背を撫で続けた。小さな背中だった。

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