よもすがら

 行成と名前は幼馴染みだった。そして、名前は彼に淡い恋心を抱いていた。それは確かだ。行成の融通の利かない生真面目さはもちろん、冗談が通じないほどに頭でっかちな所をも、名前は好いていた。もっとも、時々思う。どうしてこんな男に惚れてしまったのかと。

 この日、自分を訪ねてきた行成に、無論名前は胸を高鳴らせた。男女の逢瀬には程遠いし、彼にその気がないのも解っているが、それでも好意を抱く相手が会いに来てくれるというのは、それだけで嬉しいものだ。
 行成はそわそわとして、いやに落ち着きがなかった。御簾に遮られ彼の表情は窺えないが、写る影は挙動不審と言っても過言ではないほどだ。
「一体どうしたの、行成さま」くすくすと笑いながら尋ねる。深刻そうな雰囲気を醸し出している彼を前にして名前が笑ってしまったのは、久方ぶりに見る彼が嬉しかったからだ。いけないと思っても後から後から笑みが込み上げてくるものだから、どうしようもない。幸いにも、行成は小さく笑い続ける名前に対し、特に腹を立てたりはしなかったようだった。「話してごらんなさいな。その為にいらしたのでしょ」
 行成が頭を上げた。御簾越しに、彼と目が合った気がする。行成はやがて口を開いた。
「――女性って、オナニーするんですか」


「あなた、頭に虫でも湧いてるのでなくて。いい薬師を紹介するわよ」
「俺は真剣です!」
 一瞬でも、真面目に話を聞こうとしたことを後悔した。思い直せば、行成は昔からごくくだらないことで悩む悪癖があった。変わらない幼馴染みに、今は呆れだけが募る。
 そして中へ入ってこようとする行成を、慌てて止めた。
「あんた何しようとしてんのよ!」
「あなたにしか聞けないんですよ! どうなんですか、自慰するんですか! しないんですか!」
「声が大きい!」
 二人で息を切らしながらも、なんとか行成を押し留めることができた。御簾の向こう側からは不貞腐れたオーラが漂ってくるが無視だ。

 どうしてそんな疑問を持つに至ったのかと尋ねれば、答えは至極簡単だった。
「公任様が……女もオナニーするって言って……俺はそんなまさかと思うんですが……もし本当ならと思うと……」
「思うと、何よ」
 行成は口を噤んだ。
 藤原行成という人間は、どうも女性を神聖視している節がある。おそらく生真面目な性格が災いして女性と深く交流してこなかったことが原因だろう。簡単に想像がつく。直接の交流はないが、清少納言の苦労が窺えるというものだ。
 ――それで、なんだって? 自慰?
 女が自慰行為をするかどうかなんて、そりゃ、考えれば解るものではないのか。しかしそれをわざわざ女である名前に尋ねてくる辺り、堅物というか何というか。私が気の置けない幼馴染みでなけりゃ、こいつただの変態だぞ。
「どうなんですか、ねえ」
「どう、って、言われても……」
 答えろと言うのか。
「――するんだ! するんだ! うわあああ!」
 言葉を濁す名前を見て、どうやら肯定だと判断したらしい。御簾の向こう側から、「信じられない」とか、「あんまりだ」とか呻く声が聞こえてくる。あんまりだと言いたいのはこっちだ。誰が好き好んで、懸想している相手に自慰をするか否かなど答えなければならないのだ。

「ハァ……信じられない……」
「あんたいい加減女に幻想抱くのやめなさいよ」
 名前がそう言えば、行成は再びハァと溜息を零した。
「で、どんな風にするんですか」


「あなたもう薬じゃどうにもならないんじゃない? 一度お祓いしてもらいなさいよ」
「俺は健全ですよ!」行成が叫んだ。「だって、公任様が仰るんですよ! 女は自分が抱かれてるの想像してやるんだって! けど……けど!」
「あんたが言わんとしてることは解ったからもう少し声を低めろって言ってんのよ!」
 こんな事あなたにしか聞けないし、と行成が口籠った。この男、未だに親しい女性が居ないんだろうか。大丈夫なのかと心配になってしまう。まあ、尋ねにくいことかもしれないが、それでも――。
 ゆるやかな夜風が、名前の頬を撫でた。
 十数年ぶりに見た幼馴染みの顔に、悲鳴を上げる。「あ、あ、あんた何して……!」
「女性がオナニーに耽るかどうか、実践して貰わねば俺の気が済みません!」
「家宅侵入罪で訴えるわよ!」
 お父君に似ているなと、そう思った。仄かな灯りに頼るしかない今、それでも見える彼の顔立ちは凛々しく涼しげで、少々不貞腐れ気味なのが解った。夢にまで見た顔だった。もっとも、夢で見たよりもずっと――。
 名前に彼の顔の造詣が解るのと同じように、行成にも名前の顔は見えているのだろう。死にたい。
 先程からぎゃあぎゃあ騒いでいるというのに、家の者は一人も名前の方へ来なかった。気にも留めなかったが、こいつ、一体どういう用件で此処へやってきたと告げたのだろう。嫌な予感が名前を襲う。
「……名前さん」
「何、よ」
 口元を覆い隠しながら、じいと自分を見詰めてくる行成から目を逸らす。やがてたっぷりと間を空けて、行成が言った。
「整形でもしました?」

 思わず手が出た。
「ああああああんたねえ!」
 名前の右手は彼の顔に届くことはなかった。その寸前で受け止められたからだ。しかし宮廷で生活するには、握力も必要なのだろうか。振り解けない。
「どう、何、なんでそんな……!」
「だってあなた、こんなに綺麗でしたか?」
 夜目のせいかなと呟く行成は、やはり殴りたい。


「い、い、いい加減手を離してよ……!」
「……左手だけでもできるでしょ――」
「本当に殴るわよ!」
 乱暴だなあと、行成が笑った。
「というか、もうオナニーとか、どうでもよくなったというか……」
「あら、それは良かったですこと!」
 右手を引こうとしても、少しも動かなかった。「顔が赤いですよ」と行成は尚も笑った。「女性は自分を慰める時、抱かれていることでしか興奮できないのですよね?」
 名前は答えなかった。そしてやはり、その無言を肯定と解したらしい。
「だったら今ここで俺があなたを抱けば、あなたがオナニーする時いやでも俺のことを想うわけですよね?」

「……冗談が過ぎるわよ」
「まさか」
 次の日送られてきた文には、いつでも夜の慰みにお供させて下さいという意味の和歌が詠まれていた。死ねばいいのに。

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