無聊

 ヘレナが『それ』と出会ったのは、必ずしも必然ではなかった。
 夏の嵐の夜だった。バケツの水を引っくり返したかのような凄まじい雨が降り、雷鳴が轟いていた。没してから一千年、ヘレナは既に雨に濡れる感覚も、その肌寒さも、寝られなくなるような夏の蒸し暑さも忘れてしまった。しかし光る稲妻に驚き、ある筈のない体をびくりと震わせてしまうのは、少々小気味が良く、ヘレナはこんな嵐の夜は嫌いではなかった。夏休みなのだから尚更だ。
 二ヶ月ばかり存在する夏休みは、いつも退屈の種を撒き散らした。生徒が居る時は、彼らを眺めていれば気は紛れる。しかし夏季休暇だけはそうもいかない。生徒達は皆家に帰ってしまう。教授陣の何人かはホグワーツに残っていたとは記憶していたが、彼らの後を付き纏ったところで何の面白味もない。それに大抵の生身の人間は、ゴーストになぞ興味を示さないものだ。彼らがヘレナの退屈凌ぎに付き合ってくれるとは思わない。
 ホグワーツ城の中を徘徊するのは、ヘレナの唯一の趣味だった。もっとも、あちこち動き回ったところで、これといって新しい発見もなければ、特に興味がそそられることもない。何せ一千年続いている趣味なのだから。ただ、何もせず存在しているだけというのは苦痛だった――痛みなど感じる筈もないのに。

 その晩のヘレナは天文塔に向かっていた。さしたる理由は無かった。ただ、一番高い塔の上からでは同じ稲光でも違う風に感じ取れるかもしれないと、漠然とそう思ったのだ。雷は段々と城に近付いて来ていた。もしかするとどこかそこらに落ちるかもしれない。ホグワーツで一番高い塔は、天文塔だった。音もなく、するすると螺旋階段を昇っていく。移動が楽なのは、ゴーストの特権かもしれない。

 階段を昇り切った時、ふとヘレナはそれに気付いた。――部屋から光が漏れている。
 天文塔の最上階にはいくつか部屋があった。天文学の授業に使う望遠鏡や天文図、月球儀などを仕舞う為の準備室、講義を行う為の教室、教員の自室。ヘレナの記憶が正しければ、光が漏れているのは天文学の教諭の部屋だった。オーロラ・シニストラは帰省していた筈だが。ヘレナは眉を顰める。
 ほんの僅かな光だった。おそらく、ランプが一つ。しかし必要最低限の松明しか灯されていない今、その微かな光は異様なまでに存在を主張していた。単なる消し忘れならそれはそれで良い。久しぶりに胸が高鳴ったようだった。
 ヘレナは部屋の前に立つとじっと耳を澄ましたが、聞こえてくるのは雨音だけだ。
「誰か居るのですか?」
 返事はなかった。ヘレナは黙って固い木の戸を見詰めていたが、やがてするりと扉を通り抜けた。
 ゴーストになってから教授の部屋に入ったことなど数える程しかない。勿論実体の無いこの身だ、どこへなりとも行くことはできる。しかしヘレナはどこぞのポルターガイストなどとは違い、他者のプライバシーも守れないような不作法者ではないのだ。シニストラの部屋に入るのも、例にもれず初めてだった。
 ヘレナが思った通り、ランプが一つだけ灯っていた。頼りなげに揺れる火は、今にも消えてしまいそうだ。
 天文学教諭の部屋は小ざっぱりとしていた。アイボリーホワイトの絨毯が敷かれ、置かれた家具は必要最低限しかなかったが、どれも品があった。机の上もきっちりと整頓されていて、彼女の几帳面さが窺える。ただ、本棚だけは褒められたものではない。本がぎゅうぎゅうと押し込められているうえ、何らかの資料なのだろう、羊皮紙の巻紙やらも空いた僅かな隙間に詰め込まれている。
 部屋の奥まったところにあった巨大な惑星模型が目を引いたくらいで、特に変わったものはなかった。当然だが、シニストラも居ない。調度品のどれにも最近使われた形跡がないことや、ベッドに埃が被っていることなどは一目見て解った。誰も居ない部屋の中、忘れ去られたランプだけがただ幽かな光を放つのだ。
 シニストラはいつから居ないのだったか。はっきりとは解らないが、昨日今日というわけではなかった筈だ。ランプ芯はまだ余裕がある。屋敷しもべ妖精の忘れ物か? それにしては違和感が――。
 その時、雷が落ちた。どうやらすぐ近くに落ちたようで、部屋の中が青白い稲光で満たされるのと、凄まじい轟音が聞こえたのはほぼ同時だった。眩しすぎるその光に、ヘレナも思わず目を瞬かせた。一拍おいた後、部屋の中は再び暗闇に包まれた。影は先程よりも黒々とし、ランプの灯りはひどく弱々しく見えた。

 暗さに目が慣れた時、ヘレナは『それ』を見付けた。
 ヘレナはゴーストだった。ゴーストとは生前の人間の影のようなものであり、生きているわけではない。ただ、一千年分の経験だけは、ヘレナの胸の内に溜まっていた。もしもヘレナが生身の人間で、もしくはまだ死んだばかりのゴーストだったならば、恐らく悲鳴を上げていたに違いない。そうならなかったのは偏にヘレナ・レイブンクローとして千年以上存在し続けてきたからに他ならなかった。一千年も存在していれば、多少の奇天烈な出来事にも耐性がつくというものだ。ヘレナは叫ばなかった。ただちょっと二、三歩分飛び上るように後退して、手で口を押えただけだ。
 部屋の片隅に、大きな犬が丸まっていた――いや、違う、狼だ。
 犬にしては大き過ぎた。ランプの灯りに薄ぼんやりと照らされるその肢体は茶色い毛に覆われていた。丸い両眼は卵の黄身ほども黄色く、微かな灯りの下でも爛々と光っている。どうやらヘレナが見付けるよりも先に此方の存在に気が付いていたようで、狼はその黄色い目でヘレナを見ていたが、やがて不意に目を逸らした。
 狼にしろ犬にしろ、シニストラがペットを飼っていることは知らなかった。いや、教員がペットを飼っているなど今までに聞いたことがない――と、ヘレナは一瞬だけぼんやり考えたが、そうでないことは解っていた。ヘレナは今のホグワーツに狼人間の子どもが生活していることを知っていたのだ。
 何年前だったか、森番のハグリッドがその子どもを引き取った。生まれたばかりの狼人間の男の子だ。ヘレナ自身はその子どもに会ったことはなかったが、ハグリッドが大の怪物好きであることは知っていたし、彼のその性癖から人狼を育てるなどという事態になったのだと悪しざまに非難する者が居たことは確かなのだ。森番が狼人間の子を引き取ったのは事実だったのだろう。それに加え、いつ頃から広まったものだったかはとんと忘れたが、禁じられた森に狼人間が棲んでいるという噂を耳にした。ハグリッドが引き取った男の子が狼人間だと知っている者はごく僅かだし、そもそもそれを口にするのを禁止されている為、一体どうしてそんな噂が流れたのかは解らないが、ここ数年で広まった噂だということは間違いがなかった。
 多分――ヘレナは口にやっていた両手を静かに下ろした。ある一つの考えが、パッと頭の中に浮かんだ。多分、彼は今日のような満月の晩は、禁じられた森に居るのだ。それがこの嵐だから、やむなく室内に居ることになったのだろう。今は夏季休暇で生徒は居ない。城に残っているのは成人した、しかも魔法に優れた大人の魔法使いばかりなのだ。危害が及ぶ可能性は万が一にも存在しないし、そもそも魔法で錠をしてしまえばいくら狼「人間」と言えど、出られる筈もない。シニストラの部屋が選ばれたのは、彼女が留守だからという理由だけではあるまい。きっとここが塔の天辺で、他の人間の居住区と隔離されているからだ。


 ヘレナは今までに人狼というものを見たことがなかった。生まれてから死ぬまでの間は勿論、死んでからだって一度たりとも見たことはない(ヘレナが居るのは学校だ。本来なら、学校に狼人間が居るわけがないのだ)。知識としては知っていた。それこそ彼らが満月の晩に変身することに始まり、狼人間が変身した狼と本物の狼とアニメーガスの狼とを見分けることだって。しかしこの暗闇の中でヘレナがそれと解ったのは、何もヘレナ自身の知識によるものではなかった。でなければ狼が膝など抱えるものか。
 狼人間は満月の晩に獣に姿を変え、人間を襲う汚らわしい生き物だ。ヘレナの目の前に居る狼がヘレナに襲い掛からないのは、単にヘレナがゴーストだからなのだろう。いや、果たして本当にそれだけだろうか?
 十年ほど前だっただろうか。とにかくごく最近の筈だ。脱狼薬というものが発明された。狼人間の凶暴性を抑止し、満月の夜でも人としての理性を保てるようにする薬だった。人狼が完全な人に戻る薬は未だ開発されていないが、トリカブトを用いたこの薬は、魔法界に大きな可能性をもたらした。この狼人間がその脱狼薬を服用しているならば、例えヘレナが生身の人間だったとしても、こうして何もせずただじっとしているのかもしれない。
 ヘレナは好奇心で胸が膨らんでいくのを感じた。

「お前、人狼?」
 解り切ってはいたのだが。ヘレナは部屋の隅で小さく丸まっている狼にそう尋ねた。狼人間はちょっとだけ顔を上げ、ヘレナの方を見詰める。緩慢な動きだった。何を言うでもなく(もちろん狼が口が利けるわけがないのだが)黙ってヘレナを見遣るその様子はいかにも煩わしげで、それでいて迷惑そうだった。しかし、ヘレナは気にしない。
 ――人狼はちょっとだけ、首を上下に動かしたようだった。
 どうやら此方の言うことを解るだけの知性は失われていないようだ。脱狼薬の賜物だろう。
 ヘレナはそっと笑んだ。何も一夜の退屈が凌げるからではない。狼人間を見たのも初めてだったが、それ以上に会話が成立するなんて! 変身した人狼とコミュニケーションを取った者など、今までにどれだけ存在するだろうか。名前・名字がどれだけ自分を邪険にしようと、一向に構わなかった。何せヘレナには狼の考えることなどさっぱり解らないのだから。この知識欲を前にして、お預けなどできようか。
 幸いにも夜は長い。いつしか嵐は過ぎ去ったようで、置いて行かれた雨雲がしとしとと僅かな雨を降らすだけだ。ヘレナは嵐と、それが連れてきた雷に感謝した。今までの退屈は、今日この時の為のものだったに違いないのだ。

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