体得

 守護霊の呪文には、「幸せな思い出」が必要不可欠らしい。よく解らないが、「幸せ」にも色々あって、それぞれに強さがあるのだそうだ。より強い幸せな思い出が、強い守護霊を創り出すのだという。改めて考えてみてもやはりよく解らない。
 幸せなんてものは不確かだ。一人一人違う上、もしかすると日々変動するものではなかろうか。まあ勿論、ハリー・ポッターはそんな哲学的な答えを求めているわけではない。名前はじっと佇んだまま、幸せについて考える。一番幸せな出来事は、一体なんだったろう。
 そもそも名前は、自分にとっての「不幸」が何か、解らなかった。名前は今まで、数え切れないほどの幸運をその身に受けて生きてきた。ハグリッドが自分を引き取ってくれたことも、ホグワーツに脱狼薬を調合できる教師が居たことも、ホグワーツに入学できたことも、ジャスティンと親しくなれたことも、こうして皆と一緒に居られることも。それらを幸運と言わずしてなんというのだろう。確かに自分には生みの親が居らず、狼人間として生を受けた。しかしそれは不幸ではない。それに、そうでなければ、こんな素晴らしい日々を送れなかった。名前は毎日幸せだった。

 やはりハグリッドに拾われたことが、一番の幸せな出来事だろうか。ただ、その当時のことを自分がまるっきり覚えていないので、実感がない。名前が知っているのは、自分はマグルの病院で生まれたということと、噛まれてそうなったのでなく生まれた時から狼人間だということだけだった。以前魔法生物飼育学を教えていたケトルバーン教授によれば、先天的な狼人間というのはあまり例がないらしい。何にせよ、人から聞いた事だ。
 名前は一瞬杖を上げかけたが、やはりそのまま下ろしてしまった。
 未だに授業以外で人前で魔法を使うことに抵抗があった。そもそも、口を利くことが嫌なのだ。叶うことならずっと口を閉ざしていたい。確かに、以前に比べれば人前でも話すようになった。自分でもそれは自覚している。喋らないことが失礼に当たる場合がある事も解っている。が、それでも誰かに対して言葉を紡ぐのが苦手だった。嫌だった。喋れば喋るだけ、自分が恥知らずだと主張している気になるのだ。
 名前はハグリッドと同じスコットランド訛りの英語を話す。禁じられた森に面した小屋に住む名前には、ハグリッドしか話し相手が居なかったし、ハグリッドはどちらかというとよく喋る方だったから、彼の口調がそのまま名前に受け継がれたってなんら不思議はない。
 しかし、そうして名前がスコットランド訛りで話すことは、ハグリッドの養子であると明確にする。ハグリッドはただ、自分を引き取ってくれただけなのだ。どういう経緯かは知らないが、多分親切心で育ててくれているのだろう。
 自分なんかのせいで、彼が必要のない誹謗中傷を受けることが嫌だった。何よりも、彼を人狼の父親、そうさせるのが嫌だった。名前が狼人間だと知っている者はもちろん少ない(去年、どっと増えたわけだが、それ以前の話だ)。しかし全く居ないわけでもない。事実、自分を引き取ったせいでハグリッドは謂れない非難を受けていることを名前は知っている。
 彼に辛い思いをさせるくらいなら、自分なんて存在しない方が良いし、できる限り彼に親しまない方が良い筈なのだ。喋らなければ良いという問題ではなかったが、幼い名前にはそれくらいしか思い付かなかったのだ。
 「それって、凄く自分勝手なことだと思うわ。あの人が一体いつ、あなたを養子にしたことを恥ずかしいだなんて言ったの? そうでないのなら、あなたは自分だけ殻に閉じこもって、ハグリッドの愛を否定しているだけ。それはとても自分勝手だし、あなたの言い分は、ハグリッドがあなたを引き取ったことを恥に思うような、そんな矮小な人だと言っているのと同じなのよ」。
 彼女が言ったことは、名前にとって晴天の霹靂だった。
 もちろん名前は、自分なんかを引き取り今まで育ててくれた人の愛情を否定したいわけではないし、彼の器が小さいのだと言いたいわけでもなかった。ただ、彼に庇護されているくせにのうのうと生きている、そう思われたくなかった。彼の厚意を軽いものにしたくなかったのだ。しかしそれはハグリッドの愛を受けているからこその脆弱で、そして何よりも傲慢な考え方だった。名前は自分を恥じた。
 本当は――本当は自分は彼の息子なのだと叫びたかった。そして彼が自分の父親なのだと叫びたい。ハグリッドの愛を疑わないならば、それができる筈だ。いとも簡単にできる筈だ。名前は応答だけでなく他人と話すようになった。名前はハグリッドを「ルビウス」ではなく「親父」と呼ぶようになった。そしてハグリッドの息子としての自分を、少しだけ好きになった。彼の息子であることは絶対的な幸福であり、そして誇りだった。

 ただ、十四年もの間、できる限り口数を少なくして生きてきたのだ。長年培ってきた癖は、そう簡単に直せるものではない。それに既にジャスティンを始めとした身近な友達は、名前が喋らないことには慣れていて、あまり口を利かなくても物事が罷り通ってしまうので、余計に直らない。正直、ハグリッドやジャスティンが解ってくれればそれで良いと思っている。こういうのを、堕落していると言うのかもしれない。
 そうだ、自分の声自体も嫌いなんだよな。
 名前の声は低く掠れ、ガサガサと乾いた音をしている。当たり前だがハグリッドの声とちっとも似ていやしない。同じ訛りで喋って彼に迷惑を掛けるのは嫌だけど、全く似ていないと言われるのは、それはそれで嫌だった。
 人前で魔法を使うということは、人前で喋らなければならないということだ。DAは画期的だ。名前だって賛成している。しかし魔法の練習を人前でしなければならないことについては、文字通り閉口だ。実の所、名前は授業で魔法を使わなければならないことだって未だ好きじゃない。ただ、授業は授業だ。名前がちゃんとホグワーツを卒業することは、ハグリッドの願いだった。
 熟達した魔法使いになると、何の呪文も唱えずに魔法を使うことができるようになる。昔、誰かがやって見せてくれたっけ。無言呪文というのだそうだ。早く授業で取り扱わないかな――。


 ぽん、と腕を押された。視線を向ければ、ハリー・ポッターが名前のすぐ脇に立っていた。
「やあ」と、ハリー。「どうだい、調子は。ちゃんとやってる?」
 名前は何の返事もしなかった。ここで頷けるほど、図太い神経は持ち合わせていない。ハリーの目は明らかに「お見通しだぞ」と告げていたが、名前が体よくサボっていたことに関しては何も咎めなかった。彼の後方で、ジャスティンやレイブンクロー生達がにやにや笑っていた。どうやら彼が名前の所に来るのを見ていたようだ。彼らに向けて、名前は舌を出した。
「名前」ハリーが言った。
「すまねえ」
 自分と同い年なのに、すっかり教える側が板についている。名前はそう思った。
 うっかり謝罪してしまって、マイケル・コーナーらはついに声に出して笑い始めた。もう一度彼らの方を睨み付けようと思ったが、すぐ隣にハリーが立っていたので、名前は結局野次馬は無視することに決めた。
「さあ名前、やってみせてくれ」
 ハリーが促した。勿論名前は気が進まない。人前で呪文を唱えるのは嫌いだったし、守護霊の呪文はNEWTレベルだというのだから尚更だ。全くできる自信がない。しかし流石にハリー・ポッターに言われたのだからやらなければならない。
「頑張れ、名前」ジャスティンはそう声を掛けてげらげらと笑った。激励なのか冷やかしなのかわかりゃしない。
「良いかい、集中するんだ。幸せなことだけを考えて。呪文が成功したかどうかなんて、今は二の次で良い。咄嗟の時にできればそれで良いんだから。難しい魔法だけど、できない筈はないんだ。集中して……幸せなことだけを考えるんだ……――まあ、君がぶっつけ本番でできるって言うのなら止めはしないけど」
 名前はちょっと顔が熱くなった。
 仕方なく、杖を構えた。エクスペクト・パトローナム、と心の中で一、二度唱える。幸せな事、幸せな事――やはり思いつかない。いっそ何も考えずに振ってみようか。多分、さっきの様子じゃ、呪文が失敗したらジャスティンは笑うんだろうな。まあ、杖を振って何も起こらなかったら流石に間抜け過ぎだ。名前だって笑うに決まっている。
 せめて筋のようなもので良いから、何か出てくれると良いのだが。
「――……エクスペクト・パトローナム」名前は小さく呟き、そっと杖を振った。

 必要の部屋は先程から、ワーワーキャーキャー叫び合う声で溢れていた。DAメンバーの半数が呪文を唱えるのを止め、部屋の中をゆっくり歩き回るその守護霊を見ては、歓声を送ったり、ふざけてその行く手を遮ったりした。名前の樺の杖から飛び出した銀色の熊は、フレッド・ウィーズリーやジョージ・ウィーズリーが前に立つと、煩わしそうに前足で払うような動作をして、それから彼らの手の届かない天井付近まで駆け昇るのだった。
「君、もしかしてこの呪文前から知ってた?」ハリーが尋ねた。
 もちろん、名前は首を横に振る。
 身の丈三メートルはありそうな銀色の熊は、出現してから数分経っても今なお銀色の光を放ちながら、辺りをのし歩くのだった。

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