相乗
今日も今日とて、紫に彩られた騎士バスは、イングランド全域を滑っていた。
スタンにとって、どすんどすん揺られながら走る其れは、日常の動作のほんの一つに過ぎなかった。運転手の運転に導かれ、乗客の意志に誘われ走る夜の騎士バス。騎士バスはスタンにとって昔から、それ以上でもそれ以下でもなかった。
ナイトバスがガタンと大きく跳ねた。
新しく運転席に座った男も、以前の男の荒い運転を、まるで同一人物かと思われるほどに受け継いでいた。スタンは騎士バスの運転手が指名制な事を知っていたが、まさかアーンの奴、自分の運転をそのままソックリ写させたのではあるまいな。偶にそう思ってしまうほど、彼の後任である運転手も荒い運転をした。無論、アーニーを写したまんまだということはない。奴さんは急カーブなんぞわざわざ通らなかったし、前にマグルのバアさんが横切ろうとしていたら急ブレーキをかけて乗客を心臓発作にさせたがる、そんな男だった。
再び騎士バスが大きく宙に浮いた。
二回で乗客の誰かがゲーゲー吐くような音を立てた。これも昔からだ。スタンが騎士バスの車掌になってからこの方、週に八度は誰かが吐くようになっている。それが夜の騎士バスなのだ。
騎士バスはマダム・マーシをアバーガブニーへと運ぶ途中だったが、不意にバーン！と大きな音をたて、姿をくらませた。きゅるきゅると一瞬で姿くらましし終えた騎士バスは、エディンバラに辿り着いた。スタンが一瞬で辺りを見回すと、弓なりに腰の曲がった老魔法使いが杖腕を上げていた。スタンは開かれたバスの出入り口に降り立った。
「夜の騎士バス、ナイト・バスがお迎えに参りました。迷子の魔法使い、魔女達が為の緊急お助けバスでございます。杖腕を差し出していただければ、地続く限り何処へでもと馳せ参じます。どうぞ、ごゆるりとご乗車下さい。そうすれば何処へなりとお望みの場所までお連れします。わたしはスタン・シャンパイク。車掌として今宵、最上級の案内をさせていただきます」スタンは空で言える台詞をすらすらと言い切ってみせた。
何年も前から同じ事をずっと繰り返しているのだから当たり前だ。
再びバーン！と大きな音をたて、老魔法使いに呼ばれる前の場所に再び姿現しした時には、すでに騎士バスは夜の闇を走っていた。今夜もいつもと同じように、暗闇を駆け抜ける。マグルの灯す街灯の光や民家の明かり、それも昔から何一つ変わらない。スタンは何時しか、一種の心地よさを見出していた。夜のイギリスを此程知っているのは、俺らぐらいだ。ずっと夜を走ってきたのだから。
一度だけ、ほんの短期間だけ、スタンが夜の騎士バスに乗らなかった事があった。
いや、乗る事が出来なかった事があった。スタンは昔、アズカバンに収容されていたのだ。それも死喰い人として。暗い時代だった。暗黒の時代の再来、スタンはアズカバンで毎日を過ごしていた事があったのだ。冤罪だったのだから当然だが、スタンはすぐに釈放された。しかし、スタンが本当の意味で釈放されることができたのは、収容の日から数えて五年の事だ。スタンは五年間だけ、騎士バスから離れていた。
再び、騎士バスがバーンと飛んだ。
スタンは帽子を被り直した。
バスに乗ることが出来なかったのだ。少しでも何かをしていると、すぐに感覚が奇妙な物へと支配されていく。服従の呪文の支配による恍惚感、そしてそれに対する嫌悪感、罪悪感。その、身を全て支配される感覚をふと思い出すだけで、スタンは簡単に吐いてしまう。そんな状態が続いたのだ。『騎士バス』に乗る事など出来なかった。
だからこそ、再びこの奇天烈なバスの車掌として立つことが出来た日は、今でも覚えていた。
――あの爽快感！ スタンはこのバスを愛していた。
「夜の騎士バス、ナイト・バスがお迎えに上がりました。迷子の魔法使い、魔女達が為の緊急お助けバスでございます。杖腕を差し出していただければ、地の続く限り何処へでも参ります。どうぞご乗車下さい。私の名前はスタンリー・シャンパイク。車掌として今夜、最上級の案内をさせていただきます」
スタンが言うと、その男は「あぁ」とか何とか言った。実際には、その男が答えたかどうかは微妙なところだった。頷いただけだったかもしれない。五歳ぐらいの女の子を連れた、初老の男だ。真っ白な髪がそれを表している。
「ロンドンまで頼む」と男が言った。訛っていて、聞き取りづらかった。
しかし、スタンは伊達に長年夜の騎士バスの車掌をしていたわけではない（というよりも、スタン自身、いつも標準語を話しているわけではない）。男がスコットランド訛りで話そうと何の障害にもならず、その男の持っていたトランクを受け取った。
男はロンドンまでの代金を払い、それから一緒にいた小さな女の子を抱き上げた。彼が慣れたように颯爽とバスに乗り込んだのを確認してから、スタンは運転手に合図を送り、バスを飛ばせた。
再び、バーン！
スタンが手にしていた重いトランクが跳ねたが、新たに乗り込んだその乗客は、少しも怯んでいなかったように見えた。むしろ珍しい事に、楽しそうだった。きゅるきゅると景色が元々走っていたハイストリートに戻っていく時、舌っ足らずな声がした。
「ばくはつしちゃった！」
スタンが声の方を向くと、先程の男が目に入った。彼の腕の中には依然として女の子が抱かれていた。おそらく、小さな体が吹っ飛ばないようにという配慮だろう。確かにこのバスは、こんな子どもには刺激がキツすぎる。女の子はエメラルド色の目を真ん丸くさせていて、わあわあと何事かを男に訴えていた。爆発しただなんて不躾な事を言ったのは、この子どもらしい。
男が何も答えなかったからか、その女の子は辺りを不安げに、きょろきょろと見回した。本当に爆発したと思っているらしい。勿論、夜の騎士バスは爆発なんてしていない。もしも先程の音がそうだとすれば、スタンはとっくに天国へと旅立っている筈だ。
女の子はスタンと目が合うと、再びバスが爆発したと言った。
「バスがばくはつしちゃったよう」
「馬鹿な。だったらおめえさん、今いってえ何に乗ってるんでえ」
思わず、スタンは普段の口調で答えてしまった。しかし勿論、子どもは気にも留めない。
「でも、おっきな音がしたも」
「そりゃ――そうでい、夜の騎士バスだからな」
ないとばす？ と、女の子は舌っ足らずな言い方で聞き返した。しかしスタンは頷きはするものの、それ以上なんと答えれば良いのか解らなかった。子どもとの接し方なんて解らない。スタンは独り身だし、身近にこんな子どもなど居ないので尚更だ。車酔いした客の相手ならお手の物だが（横にさせてやって、風邪を引かないように毛布でも掛けて放置してやれば良いのだ）、子どもの相手は専門外だ。
「あんまり車掌さんを困らしてやるんじゃねえ」
スタンは頭上から降ってきた声に、一瞬度肝を抜かれてしまった。――若い！ 声が若いのだ。耳に響くこの低音は、どう聞いても年寄りのそれではない。見事な白髪をしていたので、勝手に老人だと思い込んでいた。いや、もしかしたら声が若いお年寄りかも。
「だってパパ――」
――違った。何だって？ パパ？ 祖父と孫だと思っていたのに。
スタンは変に思われないように、自然な素振りでその男の顔を覗き見た。男はやはり若かった。スタンより二つ三つ年下、それぐらいだろう。しかしそれ以前に、なんというハンサム！ 世の中の女という女が放っておかないだろう。思わずスタンはぱかりと口を開けてしまい、慌ててその場を取り繕った。
一体、どうしてこんな白髪頭してやがるんだ？
神様って不公平だ。スタンは内心でぶつくさ言った。男の顔中が古い切り傷だらけな事や、髪の毛が総白髪な事なんて、まったく問題ではない。むしろ、それが逆にこの男の雰囲気を際立たせていた。顔の造形だけでなく、背の丈だってスタンよりも頭一つ分以上高かった。
「だっても何もねえ。いつも言うちょるだろ、心配しねえでも大丈夫だって」
「うう〜……」
躾が行き届いているのだろう、少女はそれ以上、バスが爆発したと騒ぐ事はなかった。男が抱き上げている女の子を揺らし、その顔を覗き込んだ。
「もしもそんな大変な事になっても、今はパパが一緒だろ？ 俺が助けてやるから、心配はいらねえ」
不意に、スタンはその男と目が合った。男が此方を振り向いたのだ。彼がぱちんとウィンクをしてみせたので、スタンの頬が意に反して紅潮した。
男は名前・名字だと名乗った。夜の騎士バスに乗ったのは二度目なのだと名前は言った。スタンは半ば感心していた。彼はナイト・バスが上下左右に飛び跳ねても、女の子を抱えたままで物ともしないのだ。本当に乗ったのが二度目なら、これほど落ち着いているのは凄い事だ。
スタンは長い間騎士バスで車掌をしてきたが、この男を乗せた覚えはなかった。これだけ人目を引く顔をしているのだから、もし過去に会っていたなら、記憶に残っているに違いない。
バスを離れていた時期の客なのだな、とスタンは思った。
「あー……それで、スタン？ ２シックルでココアが付くんだったか？」
彼が問い掛けたので、スタンは頷いた。ココアという単語に反応して、再び女の子が騒ぎ出した。今まで外の風景やらバスの内装やらをきょろきょろと忙しなく見ていたくせに、こういう事には敏感だ。名前が小さく笑い、つられてスタンも笑った。
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