『私はカモノハシだった』

 クリスマスの朝、名前は決して自分から瞼をこじ開けたのではない。きゃーきゃーと興奮しているハンナに起こされたのだ。「起きてよ名前、プレゼントよ!」
 名前は目を擦り擦り、今日が何の日だったか思い出すのに少しだけ時間が掛かった。ハンナだけでなく、同室の女の子達全員がきゃあきゃあとはしゃぎ合っていて、笑えてきてしまうくらいだった。クリスマスがやってきていた。
 クリスマスの朝がこんなに騒がしいなんて、名前は初めてだった。
 ――クリスマスって、結構良いものなのかもしれない。
 名前もゆっくりとベッドから起き上がり、ガウンだけを羽織ってベッドの周りを見回した。足元の方にこんもりとプレゼントの山が出来ていて、名前はベッドに腰掛けたまま、一つ一つ開封した。ハンナやクラッブといった、仲良しの友達からのプレゼントも勿論あった。アーニーから羽ペンのセットが届いていたし(もっと勉強をしろという事なのだろうか)、ハリーとセドリックからはそっくり同じものが届いていた。ドラゴンの精巧なミニチュアだった。もっとも、ハリーからのはハンガリー・ホーンテールで、セドリックからはスウェーデン・ショート−スナウトだったので、全く同一というわけではない。ただどちらも同じくらい精巧にできていて、ホーンテールは四番のナンバープレートを、ショート‐スナウトは一番の札を首から下げていた。どうやら対抗試合で使った何からしい。名前はニコニコして、二匹が火の粉を噴き合っているのを見ていた。
 チャーリーからのプレゼント(ドラゴンの爪でできたペンだった)とは別に、ウィーズリー家からの小包が届いていたので、名前は少しだけ驚いた。開けてみると、ウィーズリー夫人からのものだった。中にはおばさんお手製のミンス・パイと、クリーム色のセーターが入っていた。彼ら兄妹が、皆お揃いでセーターを着ているのを名前は見たことがある。早速手編みのセーターを着込んだ。ウィーズリーおばさんが名前の為に編んでくれたセーターは、とても暖かかった。
「もう、名前ったら!」隣のベッドでハンナが叫んでいた。
 彼女は名前が贈ったプレゼントを開けていて、臭すぎると大声を上げるソックスを手にし、ぷりぷりと怒っていた。名前はジョークのつもりでアレを贈ったのだが、一緒の部屋でクリスマスを迎える事を忘れていた。ぺろりと舌を出し、それから隅の方にあった深緑色の小包を手に取った。ハンナがソックスの下に隠されたブックカバーに気付くのは、まだ先のようだった。
 緑色の包装紙をビリビリと破ると、名前はおやと思った。中から本が出てきたのだ。名前に本をあげたがる人は存外少ない(名前が一番気にするのはユーモアだと思い込んでいるのは、何もウィーズリーの双子だけではない)。分厚く妙に古くさい本で、ミミズがのたくったような表紙の文字を読み解くのに、少しだけ時間が掛かった。タイトルはこうだ――私はカモノハシだった。

 名前は『私はカモノハシだった』を贈ってきたのが誰なのか、小一時間考え込んだ。何故ならその包みにはカードの一つも付いていなかったのだ。
 名前が読みたいと思っている本が偶然届けられるなんておかしい。おかしすぎる。カモノハシを読みたがっていると知っているのはシリウスだけの筈で、だったら彼からかと言えば、そうではない。何故ならシリウスは名前に別のプレゼントを贈ってきていたからだ。もっとも多鍵式の錠前についたメッセージカードには、「シリウスより」ではなく、「スナッフルより」と書かれていたが。仮にこの本がシリウスからの二つ目のプレゼントだったとして、彼が名乗り出ない理由が見当たらない。
 本の最後のページを見ると、この本は一八四六年に絶版になっていて、そこら辺の本屋では手に入る筈がないものだった。これを名前に贈った誰かは、古本屋を何軒か回らなければならなかっただろう。名前は他の女の子達が昼食に行ったその隙に、『私はカモノハシだった』を杖でコツコツと叩いた。勿論、何も起きなかった。
 スーザンやジャスティンに始まり、ハーマイオニーやフレッドとジョージ、アンソニーといった、学校の友達については殆ど考えてみた。しかし、やはり匿名でこんな古くさい本を贈ってくるのが誰かなんて思い付かなかったし、名前には大人の知り合いなんてものも全然居なかったので、尚更誰からなのか思い当たらなかった。
 結局名前は考えるのを放棄し、たっぷりの昼食の後、すぐさまカモノハシを読み始めた。
 シリウスが言っていた通り、確かにこの本は名前が今一番必要としている事が全て書かれていた。動物に変わるのはどんな気持ちなのかや、カモノハシとして生活する時の心構え、変身する利点と欠点。解説書というわけではないし、アニメーガスについての本でもないのに、今まで読んだ中で一番理解がし易く、シリウスが絶賛していたのも頷ける。
「もう、名前ったら、いつまで本を読んでるの?」
「はあ?」
 何の躊躇もなく天蓋のカーテンが引かれ、ハンナが目の前に立っていた。
「ねえ気付いてる? パーティまであと二時間もないのよ!」
 名前はベッドに寝そべったまま、ぱちくりと目を瞬かせた。いつの間にか部屋は暗くなっており、名前は仄暗い中で文字を追っていた。本当に、瞬く間に時間が過ぎていたのだ。同室の女の子達は全員戻ってきていて、きゃあきゃあとはしゃぎ合って、ドレスローブを胸に押し当てたり、ダンスパーティについて花を咲かせている。名前は暫し唖然として、どれくらい夢中になって読み耽っていたのかと驚いた。部屋の中の燭台には火が灯されていたし、時計を見てみれば、確かにもう六時を過ぎている。ダンスパーティは八時から開催されるのだ。
「ほら名前」ハンナが急かした。「とっととシャワーを浴びちゃいなさいよ」
「ええー……何でえ?」
「何でも!」
 名前がぶつぶつと浴室に向かうのを見て、ルームメイト達がクスクスと笑った。

 シャワールームから出てきた名前は、すぐにハンナに引っ張られ、鏡台の前に無理矢理座らされた。髪の毛は念入りに乾かされ、何やら液体を付けた櫛で梳かされ、やがて後頭部の上の方できっちりと結われてしまった。毎日寝癖だらけで、いつも適当に縛っているだけの名前の髪が、今日ばかりは違っていた。
 ハンナを始めとして、同室の女の子達はみんな既にドレスローブに着替え終わっていて、部屋の中は一段と華やかだった。身支度が済んだ彼女達は全員名前の方へとやってきて、あのチークが良いの目元もいじくった方が良いのと、本人は一言も口を利いていないのに、どんどん話が進んでいった。彼女達が何のやる気もない名前を思ってのことなのか、それとも体の良い実験体にしたいのか、判断は付けづらい。最後にスーザンが薄紅のリップを塗り付けると、目の前の鏡の中では、知らない女の子がちょっとだけ煩わしそうな表情で、長い睫をパシパシと瞬かせていた。
「女の子って大変だね……」
 名前が思わず小さく呟くと、スーザンがばしりと名前の頭をはたいた。
「ちょっと! シニヨンが歪んじゃったらどうするの!」
「ごめんなさい! でも名前があんまりだったから」
 きゃあきゃあと背後で騒いでいるのを聞いて、名前は小さく溜息を漏らした。
 ドレスローブを着て、去年貰った薄銀のショールを巻き付けると、本格的に鏡の中で此方を見返しているのが誰なのか、名前自身ですら解らなくなってきそうだった。やっぱり一番見違えたのは名前だったわねとか、だっていつもがああなんだから当たり前じゃないとか、言い合っている彼女達の声を聞きながら、名前はもう一度だけ溜息を漏らした。

 トンネルの先の談話室の中も、いつもよりも華やいでいた。生徒が居る数だけドレスローブがあるわけで、普段は黒ばかりの談話室が、今は数十倍明るい。暖炉の炎がまったく目立たない程だった。
「うわ、名前か! 誰かと思った」
 そんな失礼な事を言ったのはザカリアスで、彼も皆と同じようにパーティーローブに身を包んでいた。どうやら、ハンナを見に来たようだった。彼女は今、待っていたアーニーと一緒に小さく微笑み合っている。淡いピンク色のドレスが、彼女の金髪によく似合っていた。名前はちらっとザカリアスの顔を見たが、何も言わなかった。
「何だ? いつもより大人しいじゃないか」
「スーザンに口を閉じてなさいって言われた」
 名前が憮然としてそう言うと、ザカリアスは笑いの発作が止まらなくなった。
 先程、名前はスーザンに、「そんな大人っぽいドレスローブなんだから、いつもより口数を減らした方が良いわよ、絶対!」と言われたのだ。彼女がどういう意味でそう言ったのか、名前は聞き返さなかったが、仕方なく言われた通り寡黙になり、変な事は口走らないように気を付けていた。名前だってちゃんとしていなければならないだろう時くらい解っているし、こうしてドレスローブを着ていると、段々と普段通りじゃいけないような気はしてきていた。
 ずれかかったショールを何気なく直しながら、名前は言った。
「ねえ、下級生と行くんだって聞いたけど、本当なの?」
 ザカリアスはぱっと笑うのを止め、顔色が変わったと思ったら、何も言わずにさっさと人混みの中へと行ってしまった。
 名前がふふんと見送っていると、入れ違いにジャスティンがやってきた。彼は群青色のローブを着ていて、こうしてちゃんとした格好をしていると、一段と育ちの良さが滲み出ているようだった。マグル生まれの筈なのに、そこらの魔法使いよりよっぽど決まっている。ジャスティンは少しだけ驚いたような目で名前を見た後、「似合ってるよ」と微笑んだ。
「ジャスティンもね」後ろでクスクス笑いをしているルームメイト達に睨みを利かせ、名前はそう言った。
「ドレスローブって、最初は何かと思ったんだけど、ドレスなのは女の子だけだね。男の方は色が違うだけみたいに見えるよ」
 彼がしみじみとそう言ったので、名前も頷いた。
 しかしながら、単に色が違うだけなのに、雰囲気はまるで違っている事が不思議だった。みんなクリスマスの魔法に掛かっているらしく、バタービールも飲んでいないのに顔を赤らめ、そして上機嫌だった。ジャスティンが、「一緒に玄関ホールまで行かないかい?」と言ったので、名前は喜んで頷いた。彼はボーバトンの生徒がダンスのパートナーなのだ。名前もジャスティンも、玄関ホールでパートナーと待ち合わせをしていた。
 二人は色とりどりのローブの群れを抜け、静物画の穴から外に出た。

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