シリウスとの再会

 土曜日、ホグズミード村行きが許される日だったが、名前が目を覚ました時は十時を回っていた。寝ぼけ眼で部屋を見回せば、中には名前の他に誰も居ない。一つの書き置きもなかった。置いてきぼりにされたのだ。ハンナはどうやら、名前が反省するまで梃子でも譲らないつもりらしい。仕方なしにセーターを着込み、その上からマントを羽織って部屋を出た。
 こんな時間まで玄関ホールにフィルチが居る筈がないと解っていたので、四階にある隻眼の魔女像からホグズミードへと向かった。去年、リー・ジョーダンに教えてもらった秘密の抜け道だ。少しでも早くハンナに会いたかったので、朝食も食べていなかった。ぐうぐうと鳴る腹の音を無視しながら、名前は早足で一本道の通路を歩き、やがてハニーデュークスの地下室に辿り着いた。
 名前は慎重に、物音を立てないように部屋の隅の階段を上り、するりと店内に紛れ込んだ。店の中はホグワーツ生で溢れかえっていたので、名前が店の奥から出てくるところさえ見られなければ、後は簡単だった。名前は新商品の棚のところに群がっている六年生の群れの脇をサッと通り抜け、商品棚の間を歩いた。
 空きっ腹の身に、ハニーデュークスのお菓子は毒だった。全部がご馳走に見えた。名前はいつもなら、お金を無駄に使わないようにと気を付けていたから、お菓子屋にやってきても雑貨屋に行っても服屋に入っても、抱えきれない程買い込むなんて事はしない。それなのに、今日ばかりは抱えきれない程とはいかないものの、名前は買い物かご一杯のお菓子を買った。大好きな蛙チョコレートを始めとして、高級板チョコやドルーブルの風船ガム、いつもなら絶対に買わないのに百味ビーンズまで買い込んでしまった。財布は大分軽くなり、名前はハニーデュークスを出た瞬間後悔した。

 ハニーデュークスの紙袋を腕に抱えたまま、一人でホグズミードの大通りを歩いた。行き交うホグワーツ生の顔をじっくり見ながら歩いていたのだが、金髪の三つ編みは見付けられなかった。もしかしたら、ハンナはホグズミードに来ておらず、ホグワーツ城に残っているかもしれない。名前だってそう考えなかったわけではないが、今年に入って一度目のホグズミードだし、以前一緒に行こうと言っていたので、彼女は誰か他の友達と来ているに違いないと思ったのだ。
 ホグズミード村を一周して、それでも居なかったら、ホグズミードの店を一軒一軒回って探そう、と、名前はそこまで思っていた。どう考えたって悪いのは自分だと解っていた。彼女が話し掛けてくれた時に生返事を返したのは自分だし、もしかすると無視してもいただろう。
 名前はハンナの姿を探しながら、きょろきょろと歩いていたのだが、不意に見覚えのある、しかしながら決して会いたいとは思っていなかった姿を見つけてしまった――黒い犬、スナッフルだ。
 名前がスナッフルに気が付いたと同じように、スナッフルも名前に気が付いたようだった。
 スナッフルは一目散に駆けてきた――本当に一目散だった。生徒達の間を縫うようにして、真っ直ぐ名前の方へと向かってくる。スナッフルはただの犬に見えるが、実は世間を騒がせた脱獄犯、シリウス・ブラックだった。ブラックは名前目掛けて疾走していたが、逆に名前は紙袋をしっかと抱え、踵を返して走り出した。
 何故ブラックがこんな人目の多い所でウロウロしているのか、名前も確かに気になりはしたが、それを本人に聞きたいとは露とも思わなかった。むしろ、もうブラックとは関わり合いになりたくなかった。三年生の時に彼の面倒を見てやっていたのは、単に目の届く所で餓死されていたら気分が悪いからだった。そしてブラックに協力していたのは、ホグワーツ城に施されていた吸魂鬼の警戒を一刻も早く解きたいからだった。そうでなければ、犯罪者となんか連みたいなんて思わない。
 結局、吸魂鬼の警備は名前が手を貸すまでもなく解かれる事になったので、名前はもうブラックとは関わらないだろうと思っていたし、関わるまいとも思っていた。前に一度、ブラックからと思しき差出人不明の手紙が来た時は、その手紙に書かれていた通り、食べ物を詰め込んだバスケットを送ってやったが、名前は本当に、それ以上ブラックと関わらないと決めていたのだ。
 しかしながら名前の決意も空しく、ブラックが変身した黒い大きな犬は足が速く、名前は後ろから飛び掛かられ、無様にべちゃっと転んだ。ハニーデュークスの袋は宙を飛び、名前の前でばらばらに散らばっていた。
 背中にスナッフルの重みを感じながら、名前は頬杖を付いた。もしこれが本当に犬だったらば、名前だって歓迎しよう。名前は動物が大好きだ。しかし今名前を押し倒している黒犬は本当は人間で、大の男だ。きっと魔法省に訴えても名前が勝つに違いない。名前の背にのし掛かったスナッフルは、ぶんぶんと尻尾を振っていた。
「さっさとどいてよ! その皮引っ剥がされたいの?」
 名前が言うと、黒い犬はすぐさま脇にどいた。ただ、しおらしい様子は全然見られず、むしろまだ興奮していて、気味が悪いほど嬉しそうだった。名前はくすくすと笑っている生徒達の方をじろっと睨み、それから袋からこぼれたお菓子を乱暴に袋に詰め、大股でその場から去った。スナッフルはやはり、名前の後を付いてきた。

 少し歩くと、やがてスナッフルが名前の前に出て歩き始めた。ちらちらと後ろを振り返る様子を見るに、どうやら名前に付いてきて欲しいらしかった。名前は顰めっ面のまま、ここでこの犬がブラックだと叫んだらどうなるだろうと想像したが、仕方なく黒犬に付いていってやる事にした。
 スナッフルは段々と人気の無い方へと進み、時々名前が無事に付いてきている事を確認して、村から出て、山の方へとやってきた。名前はスナッフルが岩影にするりと消えた時、一瞬ブラックが姿くらましをしたのではないかと思ってしまった。しかし実はそうではなく、岩と岩との間に細長い隙間があったのだ。人がぎりぎり通れる程度で、名前も慎重にその中へと入った。
 洞窟の中は、思っていたよりも大分広かった。パチンという音がして、シリウス・ブラックが姿を現していた。ブラックは名前が覚えていた姿と少し違っていた。伸び放題だった髪の毛が小綺麗に刈られていたし、以前は骸骨だったような顔が、少しだけ丸くなっていた。ブラックは「付いてきてくれてありがとう、名前」と言って、若かりし頃はさぞ魅力的だったのだろう笑顔を見せた。
「ビーキー!」名前が叫んだ。
「ああそう、ビーキー――は?」
 呆気にとられているブラックの脇を駆け抜け、名前は洞窟の奥まで走った。
 嵐の毛並みをした、あのヒッポグリフがそこに居たのだ。バックビークだ。バックビークはその寛大な目をちらりと此方に向け、神経質そうにカチカチと嘴を鳴らした。以前と同じ元気な姿、とは言えないが(恐らく、最近の生活が苦しかったのだろう。美しかった毛並みは見る影もないし、所々毛が薄くなっている所もある)、それでも生きているバックビークには違いなかった。
 名前はバックビークの前までやってくると、パッとお辞儀をした。脚を折り畳んで座っているバックビークは、暫く名前を見ていたが、やがて頭をちょいと下げ、お辞儀に見えない事もない動作をした。名前は夢中になってバックビークの嘴を撫で、頭を撫でた。
 ブラックは暫くの間、名前とバックビークを見比べ、無言だった。しかし我に返ると、名前が放り出したハニーデュークスの袋を抱えて、名前達の方へとやって来た。名前はバックビークに夢中だったので、ブラックが勝手に紙袋を漁っている事になかなか気が付かなかった。
 バリッと包装を破く音がした時、名前は振り向いてぎょっとした。ブラックが勝手に名前のお菓子を食べ始めていた。
「ちょっ……それあたしの!」
「ケチな事言うなよ、この一週間ろくな物食べていなかったんだ。可哀想だとは思わないのか」
「思わないよ! ビーキーの事を言ってるなら、心の底から思ってるけど」
 ブラックは肩を竦める素振りを見せたものの、紙袋は手放さなかった。確かに、ブラックは以前よりはいくらかマシになっていたものの、ガリガリに痩せていたし、健康状態も良さそうとは決して言えなかった。最近は鼠ばかり食べていたんだ、とブラックが言った時は、確かに名前は同情していた。


 名前は蛙チョコレートだけはなんとか死守しながら、ブラックがお菓子を全て平らげてしまう前に話を聞こうとした。名前を此処まで連れてきた訳や、去年の学年末に何が起こったのかという事だ。ブラックは相当お腹を空かせているらしく、名前のお菓子を貪るようにして食べていた。
「久しぶりに人と話した。誰かと会話できる事がこんなに楽しいなんて思わなかった」
「そう思うんなら、その手を離したらいかが?」
 ブラックは板チョコレートで口をもごもごさせながらそう言い、名前は冷たく言った。
「君に会いたいと思っていた。実は――」
「――ぎゃああああ! 邪道!」
「邪……あんまりな言いっぷりだな!」
 掌の上にざらざらと出された百味ビーンズは、一度にブラックの口の中に放り込まれていった。彼が口を動かすたびにジャリジャリと音がしてきそうな程で、名前は広がっている味がどうなっているのかと想像してしまい、気持ちが悪くなった。飲み物が欲しい、と呟いたブラックを、どれほどひっぱたいてやりたいと思った事か。
「仕方ないだろう。さっきも言った通り、ここの所まともな食事に有り付けていないんだ」
「アズカバンに戻るっていうのは? 三食昼寝付きじゃない?」
「厳しいな……」ブラックが眉を下げた。が、ドルーブルの風船ガムを食いちぎっている。

「頼れるのは君しか居ないんだ。定期的に食べ物を送って欲しい」
「監獄に帰れ脱獄犯」
 名前はそう言ったが、ブラックはへこたれなかった。
「やっぱりそう思うか? ――それじゃ、バックビークはどうなる?」
 名前は思わず、自分の背後にいるバックビークをパッと振り向いた。此方の会話を聴いているのかいないのか、理解しているのかそうでないのか、バックビークはその宝石のようなオレンジの瞳で、名前をじっと見詰めていた。ハニーデュークスのお菓子の中には、もちろんヒッポグリフが食べられる物など限られていて、ブラックがお菓子を消費している間も、バックビークはただ座っているだけだった。
「彼だって苦しい思いをしてるんだ。ビーキーが可哀想だとは思わないのか?」


 名前が口汚く罵ると、バックビークが聞き咎めるようにじろっと此方を睨んだ。
「――あんたってスリザリンだったんじゃないの」
「いいや、グリフィンドールだ。ありがとう、名前」
 バックビークを見た時から、名前の心は決まっていた。ブラックがどうなろうと知ったこっちゃないが、バックビークの事を思うと、そういう訳にはいかなかった。ブラックはにこにこと満面の笑みで、名前はくたばれともう一度呟いたのだが、彼は聞こえなかったふりをして、梟は毎回替えてくれだの出来れば肉を多く詰めて欲しいだのと注文を付けた。

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