南仏と東欧からの使者

 禁じられた森の上空に、月明かりに照らされ一点の黒い物が見えた。何か巨大なものが、此方に向かって飛んできていた。生徒達は口々に、あれが一体何なのかと言い合った。一年生の一人が放心したようにドラゴンだと叫んだが、もう一人の一年生は空飛ぶ家だと評した。
 どちらかと言うと、後者の憶測の方が近かった。
 巨大な何かが森の上を通り過ぎた頃、やっとその全貌が明らかになった。十二頭の天馬に引かれた、巨大な馬車だった。
 家一つ分くらいあるんじゃないだろうか――名前はそんな風に思った。巨大なパステル・ブルーの馬車は、ぐんぐん高度を下げていて、やがて大きな地響きと共に着陸した。パロミノの天馬達はぶるりと頭を振り、燃えるような赤い瞳をぐりぐりと回し、その場に留まった。
 パッと馬車の戸が開き、ホグワーツ生は皆注目した。
 まず水色のローブを身に纏った少年が飛び降りてきて、やがて馬車の戸口に金色の踏み台を取り付けた。しかし次の瞬間、皆は驚いて目を見張った。
 馬車の中から大きなハイヒールが――天馬の蹄はディナー用の大皿よりも大きかったが、これは人の足だ――子供が一人で乗るような、あんなソリ程もあるハイヒールがすっと現れた。
 馬車の屋敷のような大きさも、この女性の前ではやけに小さく見えた。ハグリッドほども大きな女性だった。大きな黒い目が、此方を見て、そしてダンブルドアを捉えた。
 ホグワーツの生徒達が拍手をし始め、名前も同じように拍手をした。大きな女性の後ろから、おそらくボーバトン生と思われる水色のローブを纏った男女が十数人、馬車から降りてきた事に名前は気付いていたが、それでもまだ巨大な女性を見ていた。女性は今、右手にダンブルドアの接吻を受けていた。ダンブルドアは背が高かったが、その女性は彼よりも更に背が高い。ダンブルドアが子供に見える程だった。
「これはこれは、マダム・マクシーム、ようこそホグワーツへ」
「ダンブリー・ドール――」名前は一瞬、彼女が何を言ったのかと聞き取れなかった。「――おかわりーありませーんか?」
「お陰様で、上々じゃ」
 ダンブルドアがにっこりして言うと、ボーバトンの校長も微笑んだ。
 二人の校長はいくらか会話を交わしたが、やがてボーバトン一行はホグワーツ生が割れて出来た道を通り、城の中へと入っていった。どうやら、彼らの身に纏っているローブではイギリスの今の寒さは堪えられないようだ。色が薄いだけでなく、生地も薄いもののようだった事が名前にも解っていた。ボーバトン生たちは震える体を手で押さえながら、心持ち急ぎ足で階段を上っていった。
 ホグワーツの生徒達は、ボーバトンの巨大な馬車に驚いたり、マダム・マクシームの大きさに吃驚したり、ボーバトン生達の水色のローブを珍しげに見詰めていたりした。名前はというと、道案内されるまでもなく言われた場所(ハグリッドの小屋の近くの、拓けた所だ)へと行ってしまった、天馬達に心を射抜かれていた。天馬のアブラクサン種が大きいとは知っていたが、あんなに大きいなんて。あの月毛のような金と銀色の毛並みを思い出すだけで、名前は惚れ惚れした。
「あんなに大きいなんて……素敵……」
 ハンナが何の事だという目で名前を見たが、名前の表情が恍惚としているのを見て、『大きくて素敵』なのがマダム・マクシームの事ではなく、天馬の事なのだと察した。
「ハンナも見たでしょ? あんなに美しい毛並み、逞しい脚……」
「アー……」ハンナが口籠もった。「はいはい」
 彼女は生返事を返したが、恋煩いのような溜息を吐いている名前の前では無意味だった。

 勿論名前のようにジッと天馬が消えていった先を見詰める生徒ばかりでなく、ボーバトン生が城に引っ込んだ後、口々にダームストラング専門学校の生徒達はどうやってやってくるかと話し合っていた。
 流石に肌寒くなってきて、名前も身を擦りながらダームストラングの登場を待っていたのだが、ふとハンナの向こう側のスーザンが、何事かを呟いた。
「何だって?」
「これ、何の音?」
 スーザンがジッとしたままそう言った。名前も同じように耳を澄ましたが、巨大な天馬達の蹄と、馬車が引きずられていく音しか聞こえなかった。
 しかし、不意にゴロゴロという何かの音が聞こえてきた。奇妙にくぐもっている音で、名前は聞き覚えが無いようなあるようなその音に、必死に耳を澄ませた。熱心に夕暮れの空を見上げていた生徒達の何人かも、その不気味な物音がどこから聞こえてくるのかと辺りを見回し始めた。
 その音は段々と大きくなってきていて、やがて誰かがアッと息を呑む音が聞こえた。
「湖だ! 湖を見ろよ!」リー・ジョーダンが湖を指差していた。
 ホグワーツ生は一斉に湖の方を見た。
「ダームストラングのご登場のようじゃ」ダンブルドアが、笑いながらそう言った。

 鏡のようだった湖の水面が、今や波打っていた。キラキラときらめき、波打ちはどんどんと大きくなってきている。次第に湖の中心、しかも恐ろしく深い位置から湖が渦巻き始めた。大きな泡がボコボコと湧き出すと、生徒達は息を呑んだ。
 やがて大きな渦の中心から、す、と何かが突き出した。そして段々とそれはせり上がってきた。長い棒のようだった。しかしそれは間違いで、名前達の目に見えた黒い棒のようなものは巨大な帆柱だった。
 ゆっくりと、その帆船は湖の中から姿を現した。
 船体の全てが露わになると、船が大きく一揺れし、湖は元の鏡ように戻った。月明かりに映し出されたその船は全体が黒く、やがて城側の岸に向かってゆっくりと進み出した。錨が投げ込まれる音が聞こえ、船に乗っていた乗員達がぞくぞくと下りてきた。
 一人一人がひどく大柄に見えたが、顔が区別できるくらい近付いた時には、なんて事はない、皆が分厚い毛皮のマントを着込んでいるせいだった。全員が十七、八歳くらいのように見えた。先頭を歩いていた長身痩躯の男だけは、銀色のマントを着ていた。
「ダンブルドア! やあやあ、暫く。元気かね」
「元気いっぱいじゃよ、カルカロフ校長」
 先頭を歩いていた男が愛想の良い声を出し、ダンブルドアと両手でがっちりと握手した。カルカロフと呼ばれた男はにこにこと微笑んでいたが、その目だけは少しも笑っていなかった。彼は城を見上げ、「懐かしのホグワーツ城」と一人呟いた。
「此処に来れたのは嬉しい。実に嬉しい――ビクトール、こっちへ、暖かいところへ来ると良い……――ダンブルドア、構わないね? 彼は風邪気味なんだ」
「ああ、勿論じゃとも。ダームストラングの諸君も、城の中へと入ると良い。先程ボーバトンの皆々も到着したばかりでの、マダム・マクシームは君達の到着を今か今かと待っておった」
「そりゃあ良い。では我々もお言葉に甘えるとしよう――」カルカロフは朗らかにそう答えて、近くにやってきていた生徒に向けて言った。「――さあ、ビクトール、行こう」
 ボーバトンの生徒が城の中へと入る時と同じように、ホグワーツ生達は再び列を二つに割って通り道を作った。名前は列の真ん中に居たわけではないが、目を凝らし、生徒達の頭と頭の間から顔を突き出す事で、ダームストラングの一行をはっきりと見る事ができた。

「クラム!」声を上げたのは、何も名前だけではなかった。
 あちらこちらで、一番前を歩く生徒があのビクトール・クラムだと叫ばれていた。名前は貴賓席で間近で彼を見たのだ。試合終了後に見た時のように黒々とした痣は無かったが、紛れもないクラムその人だった。ワールドカップを見に行った生徒も、そうでない生徒も、クラムを一目見ようと押し合いへし合いした。
「クラ……何ですって?」ハンナが聞き返した。
「クラムだよ! ビクトール・クラム!」
 ダームストラング生の後をわらわらと歩きながらも、名前はハンナがクィディッチの興味を殆ど持っていない事が悔やまれた。夏休み明け、あれほど語って聞かせたのに、選手の一人も覚えていないなんて。もっとも、名前だって彼女が心からワールドカップの話題に夢中になれるように話しているつもりはなかったし、彼女が聞き流している事だって解っていたのだが、この興奮を分け合えないなんてと残念に思った。
「世界一のシーカー、ビクトール・クラムだよ」
「あー……」ハンナは珍しく魔法生物以外の事で興奮している名前を見て、言葉を無くしたらしい。
 名前は確かに彼が十八歳だとは知っていたし、ブルガリア・チームの選手達の中で比べればクラムは小さく見えたが、現役の学生だったとは知らなかったし、むしろ露程も思わなかった。あんなに素晴らしい飛び方をする選手が、自分たちと同じ、学生だなんて信じられるわけがないじゃないか。クィディッチ狂の生徒達の間では、館ほど大きいパステル・ブルーの馬車も、おどろおどろしい帆船も、すべて頭から消え飛び、ワールドカップでのあの目も眩むようなウロンスキー・フェイントだけが思い出されていた。

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