三つの許されざる呪文

 ムーディは教卓の前まで脚を引きずりながら歩くと、椅子に座る事はせずに生徒達の方を振り返り、三つ目の許されざる呪文が何なのか、解る者は居るかと尋ねた。手を挙げる生徒はごく僅かだった。先程よりも半分以上減っている。しかし、半数以上が手を下した訳は、何もその呪文を知らないからではない。だって、ハンナが解らない筈はないじゃないか? 彼女は名前の横で前を見たままで、挙手をする事はしなかった。
 ムーディはピンと腕を伸ばしていたジャスティンを指名した。
「何かね?」
「死の呪い、アバダ ケダブラです」
「ああ」ムーディの口がひん曲がった。「そうだ」
 ガラス瓶から三匹目の蜘蛛を取り出したムーディは、ゆっくりと喋った。何故か取り出された蜘蛛は、他の二匹と違い、無我夢中で彼の手の中から逃げ出そうとしていた。もっとも、名前はその理由が何故なのか解る気がした。
「最悪の呪文だ。反対呪文はなく、防ぎようがない。しかし、お前達は知らねばならない」
 ムーディは蜘蛛を机の上に置き、そして呪文を唱えた。
「アバダ ケダブラ!」
 目も眩むような緑の閃光が走り、生徒達は皆身を竦ませた。何かが舞い上がるような、そんな音がした次の瞬間、蜘蛛は死んでいた。ぴくりとも動かず、ただ死んでいた。肉体から、魂が拭い去られたのだ。ヒッと息を呑む者も居たし、あちらこちらで声にならない悲鳴が上がった。
 死んだ蜘蛛を机の上から払い落としたムーディは、この呪文を受けて生き残った者は一人しか居ないと言った。皆が、あのハリー・ポッターの事だと解っていた。

「アバダ ケダブラの呪文は防ぎようがない。相手の命を削り取るのだから、それ相応の魔力が必要なのだ。強力な闇の呪いだ……防げる筈がない。例えお前達がこぞって杖をわしに向けてこの呪文を使ったところで、わしは鼻血すら流さんだろう。しかし、わしの役目はお前達に『許されざる呪文』を使えるようにする事ではない」
 ムーディが話す事に、皆が真剣に耳を傾けていた。しかし全員が今見たばかりの光景に心を囚われていた。あんなに簡単に、杖を振って呪文を呟くだけで、誰かが死んでいるだなんて。ちょっと右手を動かせば、誰かを殺す事ができてしまうなんて。
「さっきも言ったように、お前達は知らねばならん。知らねばならんのだ! 見た事も無い物から、どうやって身を守る? お前達は最悪の事態を知っておかねばならない! ――……そう、お前達は常に気を張っていなければならない。絶えず緊張し、向かってくる全ての外敵に警戒していなければならないのだ。油断大敵!」
 ムーディが叫ぶと、皆が飛び上がった。
「魔法省は――」ムーディが言った。「――お前達がこれを知る事を望んではいない」
「しかしお前達は、この呪文が蔓延るような事態に立ち向かわなければならんかもしれん。そうでもないかもしれん。だからこそ、知っておかなければならないのだ。少なくとも、ダンブルドアはそう考えている」
 残りの授業は、三つの許されざる呪文について、ノートに書き取る事で時間が過ぎていった。終業のベルが鳴ると、皆一斉に教室の外へと飛び出したが――無理もない、この教室に居るだけで息が詰まる――名前はムーディに残るよう言われていたので、ハンナ達の気の毒そうな視線を受けながらも、ノロノロと羽ペンと羊皮紙を鞄に仕舞っていた。
 名前の気持ちを解っているのかそうでないのか、ムーディは黙って名前を待ち、それから付いてくるようにと促した。名前はどうして次の授業が無いのだろうと思った。そうすれば、ムーディだって居残るようになんて言わないだろう。もしくはクィディッチがあれば、ハッフルパフでチェイサーを務めている名前は練習をしなければならないから、それを理由に断れただろうに。名前は三大魔法学校対抗試合を心底恨んだ。

 ムーディが連れてきたのは彼の自室で、名前はおっかなびっくりその中に入った。去年、ルーピン先生が居た部屋だ。ルーピンが此処の主だった時は机や椅子、棚といった必要なだけの家具しかなく、妙に広々としている印象を受けたが、ムーディの部屋は別の意味で変わっていた。確かに家具はあったが、それ以上に、わけのわからない道具が沢山置いてあった。あのクネクネした金色の棒は何だろう?
 名前は促されるままに椅子に腰掛けたものの、ムーディが此方に背を向けていたので、遠慮無く部屋を見回した。ムーディの部屋にある物の数々は、恐らく『闇祓い』時代に使っていたものなのだろう。名前は壁に掛かった鏡(映っているのは部屋の様子ではなく、何やらぼんやりとした黒い影のような姿だ)が「敵鏡」だと知っていたし、机の上にあるガラスの独楽のようなものが「かくれん防止器」だという事も知っていた。スニーコスコープはそのミニチュアをハリーが持っていたし、敵鏡は父の部屋にも立て掛けてあったのだ。
「茶はどうだ、名字」
 出し抜けにムーディが聞いた。
 名前はそのあまりの唐突さに、一瞬「は?」と聞き返してしまうところだった。慌てて口を噤むものの、そんな様子に気付かなかったのかそうでないのか、ムーディは無反応だった。彼は戸棚を漁っていた。ちらりと見えた限りでは、色々な種類の小瓶が置いてある。
 ムーディは名前が聞こえなかったと思ったのか、再度聞いた。
「紅茶はどうだ? アールグレイにダージリン、他にもあるぞ」
 名前は呆気にとられていたが、流石に返事をしないのはまずいと思い、頂きますと言った。湯を沸かし、紅茶を淹れているムーディは、いかにも不気味だった。訳が解らなかったからだ。それに、似合わないにも程がある。ムーディは名前が考えている事など知る由もなく、やがて紅茶を注いだ。
 名前は出された紅茶に何か魔法薬でも入っているのではないかと思って(自白剤とか、謝罪しないではいられない薬とかだ)、紅茶の匂いを嗅いだが、別段変な匂いはしなかったし、色も普通だった。名前は紅茶を飲みながらも、ムーディの両目が自分に注がれている事に気が付いていた。
「良いぞ……名字」ムーディが呟いた。何故か満足げだ。「いつでも油断しない事が大切だ――しかし世の中には無味無臭の毒薬も存在するし、その上そういった物に限って即効性がある」
 ムーディがしれっと言ったので、名前は思わず飲んでいた紅茶を噴き出した。
 げほげほと咽せ込んでいると、ムーディが嗄れた声で笑った。大口を開け、声を立てて笑うので、顔中の傷痕が引きつり、彼の形相を更に恐ろしくみせた。存外親しみやすいのかもしれない、と口元を拭いながら思ったものの、やはりムーディは笑っていても不気味だった。

 笑い終わった後、ムーディ先生の左目は名前を見る事を止めて、例の如く乱回転し始めた。
「名字、お前は何故わしの質問に答えなかった?」先生が率直に聞いた。
「あー……」名前は声にならない声を出していたが、やがて言った。「解らなかったからです」
 名前がそう言った途端、部屋の隅っこの小さいテーブルの上に置いてある、クネクネしていた金色の棒が、それまでより更に激しくクネクネし始めた。名前は何事かとぎょっとし、ムーディがまたくつくつと笑いを漏らした。青い目が裏返って名前に白目を見せていた。どうやら彼も、あの金色のクネクネを見ているらしい。
「おまえ、嘘をついたな?」
 名前が何も答えられずにいると、ムーディは青い目を小刻みに揺らして笑った。
「あれは秘密発見器だ」金色のクネクネを親指で示した。「隠し事や嘘を探知すると、ああやって振動するのだ。もっとも、此処に来てからはいつでも動いているがな。どうして授業に遅れてきたのかだとか、そういった事で生徒達は皆嘘をつく――まあ、答えにくい質問だったろう。死の呪文は決して気持ちがいい物ではない」
 名前はムーディに説教をされると思っていたので、彼が懐かしげな目で自分を見詰めた事に、ひどく驚いていた。ムーディの自在に動き回る左目も、見慣れてみればそれほど恐くはなかった。傷だらけの顔も、考えてみれば自分の父親だって傷だらけだったのだ。父親があと十年長く生きていれば、こんな顔になっていたに違いない。ムーディ先生は暗灰色の髪をばさりと振り、名前に言った。
「お前が何かを訊かれて口籠もる時は、何もそれが『解らないから』じゃない。どう答えれば良いのかと考えているからだ。言い方に答え方……どう喋れば相手が納得するか、波風が立たないかを考えているから、そうして答えるまでに時間が掛かる。お前の父親もそうだった」
 名前はこの時初めて、ムーディの顔をまじまじと見た。同時に、ムーディも名前を見ていた。彼の両目は今や、再び名前に注がれていた。
「そうだ。俺はお前の父親を知っている」

「奴はいい男だった。尊敬に値する男だ。魔法使いとしても、闇祓いとしても。わしはやつを闇祓いとして育て上げた事を、今でも自慢に思っている――最初にお前を見た時、あまり父親には似ていないと思った。しかしどうやら、そうとは言い切れないようだ」
 それからムーディは紅茶のお代わりを名前に勧め、三十分後に名前は先生の部屋を後にした。ムーディの部屋を出た後の名前は、体中ぽかぽかとしていて、何だか幸せな気分だった。

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