闇の魔術に対する防衛術

 ムーディがマルフォイをケナガイタチに変えて懲らしめたという話は、瞬く間にホグワーツ中に広がった。三大魔法学校対抗試合の事など隅に追いやられ、如何にしてムーディが白イタチを跳ね回らせたかという事が噂の中心になった。あの一連の出来事を間近で見ていたのは勿論名前だけではなかったので、ハッフルパフの四年生達は、次の日の午後にある闇の魔術に対する防衛術の授業を今か今かと待っていた。
 耐え難い魔法薬学が終わり、占い学、変身術の後、ついに防衛術の授業がやってきた。皆、始業のベルが鳴る五分前には席に着いていた。机の上には教科書の『闇の力――護身術入門』を広げ、ムーディがやってくるのを心待ちにしていた。やがてコツッ、コツッと鈍い音をさせて、ムーディが教室に入ってきた。
 ムーディは教卓に着くなり、開口一番言った。「教科書なぞ仕舞ってしまえ」

 みんなおっかなびっくりではあるものの、期待に胸を高鳴らせた。去年の防衛術の先生、ルーピン先生も、最初の授業の時に教科書を仕舞わせた。彼は最高にクールな先生だった。皆がワクワクとムーディを見詰めたが、やはり彼は恐ろしげで、誰も少しも喋らなかった。静まり返る教室で、ムーディが淡々と名簿を読み上げる声だけが響いた。
 ムーディは一人一人の名前を呼んだが、返事を聞くだけで生徒の顔を見る事はしなかった。少なくとも、両目で見てはいない。しかし名前が「はい」と返事をした時、驚いた事にムーディは顔を上げ、名前をジッと見詰めた。先程まで彼の左目はグルグルと動き回り、教室中を眺めていたのに、今は左右両方の目が名前を見ている。蛇に睨まれた蛙のように名前が硬直していると、ムーディはニヤッと口元を吊り上げたようだった。歪んでいるのが口なのか傷なのか解りゃしない。
「そうだ、お前が名字だな?」
 名前がこくこくと頷くと、ムーディはやがて視線を外し、名簿を読み上げる作業に戻った。
「あたし何かした――?」
 声を殺してハンナに叫んだが、彼女も困り切ったように首を横に振るだけだった。

 出席簿の最後の生徒が返事をし終えると、ムーディはそれを仕舞い、口を開いた。
「お前達の学年について、わしはルーピン先生から手紙をもらっている。まね妖怪、赤帽鬼、おいでおいで妖怪、水魔、河童……闇の魔法生物達と対決する為の基本を学んだ。――そうだな?」
 ムーディは唸るように話すので、単に尋ねているだけでも、脅されているように感じた。生徒達が素早く頷くと、ムーディは「ふむ」と言って暫く目を伏せたが、やがて「お前達は遅れている」と断言した。
「確かに、魔法生物の対処法は知ったやもしれん。家にボガートが化けたアナコンダが出てもやっつけられるかもしれん。湖で溺れて水魔に捕まっても逃げられるかもしれん。だが――それだけだ。お前達の命を守るのに、何の役に立つ?」
 ルーピン先生のやり方を否定されたような気がして、皆はざわざわと反論の声を上げたが、ムーディのぐるぐると動き回る青い目が自分の方に向けられると、すぐさま口を閉じた。
「お前達は知らなければならない」ムーディが言った。「呪いの対処法だ」
「お前達に魔法使い同士がどこまで呪い合えるものなのか、それを教えるのがわしの役目だ。わしはお前達に、一年の間でどう闇の魔術と向き合っていけば良いのかを叩き込む」
「……一年?」と、後ろでザカリアスがぽつりと呟いた。
「魔法省は、お前達が必要最低限の反対呪文だけ知っていれば良いと思っている。飛んできた呪いを防いだり、相手の武器を取り上げる、そういった事だ。だがそれでは!」ムーディが突然大声を出したので、全ての生徒がびくりと飛び上がった。ムーディの目はグルグルと動き回っていたが、やがて一人の男子生徒を睨んだ。「そこのお前、『許されざる呪文』の一つでも答えてみろ! わしはまだ杖を出せとは言っておらんぞ」
 教室中の視線がその男子生徒に集まった。彼はどうやら机の下で『取り替え呪文』の復習をしていたらしく、顔を真っ赤にして縮み上がった。ムーディのあのブルーの目は、単に自在に動くだけではないらしい。
 男子生徒はやがて消え入るような声で、「服従の呪文」と呟いた。
「ああ、そうだ。その通りだ」
 ムーディはそう言うと、暫くその男子生徒を睨み付けていたがやがて徐に立ち上がると(青い目はまだ男子生徒を睨んでいた)、引き出しの中から何やらガラス瓶を取りだした。瓶の中には三匹の丸々太った蜘蛛が入っていて、ガサゴソと動き回っていた。生徒達は何が始まるのだろうと、興味津々でムーディを見ていた。
「……違法とされる闇の魔術がどんな物なのか、省の連中はお前達はまだ知らなくて良いと思っている。幼すぎるというわけだ。だがダンブルドア校長は、お前達を評価している。非常に高くな。お前達には根性があり、それを見ても堪える事が出来るとお考えだ。わしに言わせれば、戦うべき相手を知る事は早ければ早いほど良い――堪えられるかは別にしてな」
 ムーディがそう言いながら瓶の中から一匹の蜘蛛を取り出し、掌の上に乗せて、みんなに見えるようにした。やがて蜘蛛に杖を向け、ムーディは一言呟いた。
「インペリオ! 服従せよ!」

 蜘蛛が曲芸をしているようだった。勿論そんな芸達者な蜘蛛が居る筈ないから、これは呪文の効果だと解る。蜘蛛はムーディの手の上で宙返りをしたり、机の上に飛び降りてタップダンスらしきものを踊ったりした。皆笑ったが、ムーディは無表情のままだった。
「面白いと思うか? わしがお前達に同じ事をして、お前達は笑う事ができるか?」
 皆シンと静まり返った。ムーディの杖は未だ蜘蛛に向けられていて、今蜘蛛は足を丸めてコロコロと転がっていた。完全な支配だった。ムーディはこの蜘蛛に人を襲わせる事もできるし、自分で自分を殺させる事もできるとも言った。やがて杖を離したムーディは蜘蛛を摘み、元のガラス瓶に戻した。
「さて……他の呪文を知っている者は居るか?」
 クラスの内の、何人かが手を挙げた。ハンナもスーザンも手を挙げていて、ムーディはやがてアーニーに答えるようにと指名した。知っていたが挙手をしなかった名前は、一番前の席に陣取ったアーニーが、ピンと背筋を伸ばし、答えているのを見ていた。
「磔の呪文です」
「ああ、そうだ」ムーディが言った。
 ムーディはガラス瓶から二匹目の蜘蛛を取り出して、机の上に置き、それから解りやすいようにと肥大させた。大人の手の平以上に大きくなった蜘蛛は、逆らう事は出来ないと解っているのか、それとも恐怖で身を竦ませているのか、身動ぎ一つしなかった。ムーディは蜘蛛に杖を向け、「クルーシオ! 苦しめ!」と呪文を放った。
 蜘蛛はひっくり返り、脚を折り曲げ痙攣し始めた。もんどり打って転げ回っている。激しく身を捩り、八本の脚を必死にばたつかせていたが、ムーディの呪文からは逃げられない。何の物音も聞こえてこない事が逆に不気味だった。
 杖が離された時、蜘蛛の動きは止まった。
「レデュシオ! 縮め!」ムーディが杖を向けると蜘蛛は元の大きさに戻った。
 ムーディは蜘蛛をまた瓶の中に戻し、言った。黒い目はガラス瓶の中を見ていたが、魔法の目は教室中をぐるぐると見回していた。
「磔の呪文さえあれば、拷問に親指締めは必要ない。ナイフもいらない。爪を剥ぐ必要もない――許されざる呪文の一つでも、同族であるヒトに対して使えば、忽ちアズカバン送りだ。終身刑が待っている。服従の呪文、磔の呪文……どちらもかつて、盛んに行われた。十数年以上前の話だ。魔法省は服従の呪文にかかった者を見分けるのは困難だったし、磔の呪文のおかげで何十人もの犠牲が出た」

「許されざる呪文はあと一つある」
 ムーディはコツッ、コツッと音をさせて、教室を歩きながら言った。みんな身を縮ませ、ムーディを見詰めていた。やがて、彼は名前の目の前で足を止めた。名前は何故ここまでムーディに目を付けられているのか、全く解らなかった。口をぎゅっと結んだままの名前に、ムーディが「名字、お前はそれを知っているだろう」と言った。優しげな声を出そうと努力したのか、ムーディの声はいつものものよりは穏やかに感じられたが、目の前に傷だらけの隻眼の男が居るのでは意味がない。
 ハンナとスーザンに見守られながらも、名前は首を横に振った。
「解らない?」ムーディがきつく言った。
「――……答えたくありません」
 名前がそう答えるのを、教室中の皆が聞いていた。ある者はハッとして名前を見たし、またある者はムーディがどう反応するのかと興味津々だった。ムーディは青い目をギョロギョロさせて名前を見ていたが、やがてくつくつと低く笑い始めた。名前も他の生徒達も、ムーディが突然体を震わせ始めた事に驚いていた。
「答えたくないか、成る程。わしはお前達のクラスが五度目の授業だが、質問の答えが解らないなら兎も角、答えるのを拒否されたのは初めてだ」
 ムーディはやっと名前に背を向け、コツッコツッと教卓の方へ戻り始めた。名前は怒られなかった事にも、減点されなかった事にも、処罰を言い渡されなかった事にも、イタチに変えられなかった事にもホッとして、大きく溜息を吐いた。しかし背を向けたムーディが、魔法の目を通してまだ自分を見ているような気がした。

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