恐怖を乗り越える

 名前がマダム・ポンフリーのお墨付きを貰って無事に退院したのは、実は日曜日になってからだった。本当なら、土曜の昼には医務室とおさらばできる筈だった。それが半日も長引いてしまったのは、入院した次の日に、名前が医務室から抜け出したからだった。

 テストが終わり、ビーキーの控訴裁判が行われ、ブラックが捕まり、名前が吸魂鬼に襲われそうになったあの日、名前は何の夢も見ず、ベッドに横になった途端に眠ってしまった。ディメンターのおかげでずっと寝付けず、毎晩悪夢を見続けていたのに、嘘のようにぐっすりと眠れた。目を閉じたと思ったら、次の瞬間朝になっていた程だった。
 医務室の誰よりも早く目を覚ました名前は、段々と角度を増していく太陽の方を見詰めながら、暫くの間ぼーっとしていた。色々な事がありすぎた。やがてやってきたマダム・ポンフリーは、微笑みを浮かべながら名前の世話を焼いてくれた。名前はベッドに横になっている間、ずっと彼女が話している事を聞いていた。安静にしていれば、今日の昼には退院できるだろうという事や、ホグワーツから吸魂鬼の警戒が全て解かれたという事。朝一番で、ルーピン先生が辞職したという事。
 それから暫くして、マダム・ポンフリーが目を覚ましたらしいハリーの所へと向かったその時、名前は医務室を抜け出した。それは簡単だった。なぜなら名前の手元には杖があったのだから。目眩まし術を掛けてしまえば、もう誰にも見つかる事はない。名前はふと、自分の姿が掻き消える寸前、ハーマイオニーが此方を見ていたような気がした。しかしながら彼女は何も言わず、布団へと潜り込んだ。


 名前は無事に医務室から抜け出すと、急ぐ事もせずに、しかしゆっくり歩く事もせず普段通りに歩いて目的の場所へと向かった。まだぎりぎり朝食の時間の筈だったが、透明のままで中を横切った大広間には、人が殆ど居なかった。そういえば、今日がホグズミード行きを許される日だったという事を今やっと思い出した。
 名前はふと考え、手近にあったナプキンに少しのトーストをぱぱっとくるみ、こっそりとローブに仕舞い込んだ。透明になっているのは名前だけだから、トーストは独りでに包み込まれ、虚空へと消えたわけだが、それに気付く生徒は誰も居なかった。
 目当ての部屋に辿り着く少し前に目眩まし術を解き、それから目の前のドアをノックした。どうぞ、という返事を受けて、そのまま部屋の中に入る。
「やあ、名前」
 ルーピンは立ったまま、机の上の何かを覗き込んでいた。こちらを向く前に自分が誰かを当てられたので、名前は少しだけ驚いた。ルーピン先生は杖で古びた羊皮紙らしきものをトンと叩き、それから名前の方を振り返った。
 ひどい顔だ、と名前は思った。
 にこり、と微笑んでみせた彼の顔には、濃く黒い隈ができていたし、以前よりも更に白髪が増えたように見えた。心底疲れ切ったという表情だ。名前が覚えている限りでは、昨日は満月だった筈だ。
 名前がこうしてルーピン先生の自室に入ったのは、恐らく三度目だ。もう少し多かったかもしれないし、少なかったかもしれないが、どちらにしろ片手で足りるほどだろう。ルーピンの部屋は以前から物が少なかったし、名前もそれは知っていたが、今日はその数少ない家具が整理されていた。戸棚は空っぽになっているし、机の上も、本棚にも、窓枠にも、何の物も置かれていなかった。こざっぱりどころではない。名前はルーピンが辞めてしまったのだという事を、今やっと理解する事ができた。
「君から訪ねてきてくれたのは初めてじゃないか、名前?」
「そうでしたっけ? それよりルーピン先生、どうして来たのが私だって解ったんですか?」
「どうしてだと思う?」
 ルーピンがそう言ったので、名前は少し目を瞬かせた。
「質問を質問で返すのは狡いですよ」
「そうだね」ルーピンは小さく笑った。

 闇の魔術の防衛術の先生として、確かにルーピンの事は好いていたが、名前は別段彼に辞職を考え直してくれだとか、来年もここに居て欲しいだとかを言う為に、彼の元へと来たわけではなかった。名前は鳶色の髪を見詰めて彼の後を歩きながら、ルーピンが随分軽々とトランクを運んでいる事を不思議に思った。だが考えてみれば、おそらく軽量化させる呪文がかけてあるのだろう。名前の持っている鞄と同じように。
 誰も居ない教室を見つけると(これはひどく簡単だった。何故なら皆がホグズミードへと行っているからだ)、ルーピンは杖を振って整然と並んでいた机を脇へと寄せさせた。
「さあ、名前――」
 ルーピン先生は一瞬だけ躊躇したような素振りを見せたが、それ以上は何も言わずに、名前を促した。名前が一歩前へと進むと、先生は二歩後ろへと下がり、杖を振って旅行鞄の錠を開けた。かちりと音がした。
 ばっくりと左右に開かれたスーツケースから、ゆらりと人影が立ち上がった。
 吸魂鬼は顔のない顔を名前の方へと向け、それからザーザーと息を吸い込み始めた。死に際の息のような、薄気味悪いガラガラという音が聞こえた途端、教室が一気に冷え込んだ心地に襲われ、名前は思わずごくりと唾を飲み込んだ。ボガートが化けたディメンターが一歩一歩近付いてくる度に、名前は頭の中でぐるぐると光景が流れ始めるのが解った。
 壊れたレコードの様に、毛布にくるまってガタガタと震えていた小さな名前が、何度も何度も見えた。あの乱闘の、大きな物音が何度も何度も聞こえてきた。小さな名前はぎゅっと身を縮ませ、恐怖で目を閉じる事すらできないでいた。
 名前は杖を握り締め、目の前のディメンターを見据えた。

 考えてみれば、全ては名前の恐怖心が見せる幻だった。名前は何が恐いのかを知っている。しかし同時に、何が幸せなのかも知っていた。その事を、名前はずっと忘れていたのだ。
 別に、恐がる事は悪い事ではない。恐怖から逃げる事だって悪い事じゃない。しかし名前は、逃げるという選択はしたくなかった。もう二度と、逃げたくはなかったのだ。
「エクスペクト・パトローナム」
 名前がそっと呟くと、ハシバミの杖の先から目の眩むような輝きが溢れ出た。本物の守護霊だ。銀色の光を放つ小さな塊は、一直線に吸魂鬼へと飛び、吸魂鬼へと衝突した。一瞬の出来事だった。昨夜と同じように霧になってしまうんじゃないかと思ったが、ボガートだったからだろう、吸魂鬼が纏っていた黒いローブだけがその場に落ちていた。リディクラスと呟くと、それすらも消えてしまった。名前は自分が既に、寒さも恐怖も抱いていない事を知った。
 名前は、吸魂鬼を克服した。
「よくできた」ルーピンが言った。「非常によくできたよ、名前」
「君みたいな子供が――たった十三歳の女の子が本物のパトローナスを造り出すだなんて。私は初めて見たよ。実に素晴らしい守護霊だった」
 ルーピン先生が心の底からそう思っている事が解ったので、名前も自然とはにかんだ。
 名前の守護霊は、以前ルーピンが言ったように、小さな生き物だった。コマドリだ。銀色のコマドリは名前が触れようとすると、フッと消えてしまった。名前は何故か、父親の後ろ姿を思い出した。
 ちょっとした広間のようになっていた呪文学の教室を、ルーピンが直し始めた。今度は名前も一緒になって杖を振った。浮遊呪文で机を浮かせる作業はなかなかコツが要るようだったが、すぐに教室は元通りになった。
「でも、ハリーだって守護霊を造り出せる。そうですよね?」
 思い至って名前が言うと、予想外にもルーピンは少し驚いたような表情をしていた。
「ハリーが?」
「プロングズ、そうなんでしょう?」
 名前がルーピン先生を見上げながらそう言うと、彼は少しだけ目を泳がせた。一瞬の沈黙の後、先生はいつだったかと同じように、「敵わないね、君には」と苦笑した。
 名前は昨晩、確かにダンブルドアに、何故校内にディメンターが居たのかは聞いていたし、ハリーとハーマイオニーが校庭で吸魂鬼の大群に襲われた事も耳にしていた。しかし、詳細は知らなかった。名前はルーピン先生に、ダンブルドアが教えてくれたのだという事の仔細を聞かせてもらった。ルーピン先生までが何故満月の夜に外に出ていたのだとか、大群のディメンターはハリーが造り出した牡鹿のパトローナスによって追い払われたという事。
 ブラックが言っていた事を全て信じるなら、ルーピンは彼の学生時代の友人だった筈で、何かはぐらかされているような気はしたのだが、名前はその原因を尋ねたりはしなかった。
 ルーピンと別れた後、名前は禁じられた森の方へと向かった。この一週間、テストのおかげでずっとスナッフルの所へと行けていなかったからだ。それに、名前だってブラックが捕まり、それから逃げ出したのだという経緯を知りたくないわけではない。本人に聞く事ができれば、それが一番手っ取り早い筈だ。上機嫌のハグリッドと長い間話し込んでしまったが、その後名前は森の際へと向かった。しかし名前がいくら呼んでも、結局あの黒い犬は現れなかった。

[ 615/832 ]

[*prev] [next#]
[モドル]
[しおりを挟む]



×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -