ポルターガイストと吸魂鬼、そしてパトローナス

「なーんて悪い子なんだろう! こんな時間に一人で歩いているなんて!」
 まるで歌うように口ずさむピーブズは、どれだけ名前が睨み付けても、どこ吹く風だった。彼の意地悪く小さな目が、爛々と光っている。仄暗い中でふわふわと自在に動き回るピーブズは、とても異質な物に思えた。彼自身が光を放っているわけでは決してないのに、ほんの僅かな光のおかげで、名前には彼の挙動が手に取るように解っていた。
「悪い子にはお仕置きしなくっちゃ。だってそれが当然の事だものね。――フィルチに教えてあげようか? 手錠に鎖が、ピカピカに磨いてあると言ってたよ」もしかして、彼は血みどろ男爵に言われて此処に来たんじゃないだろうか、とほんの匙一杯分抱いていた名前の期待を、ピーブズはものの見事にうち砕いた。
 意思の疎通は出来てはいなかったのだが、名前にはピーブズが考えていそうな事が解っていたし、逆にピーブズも名前が言いたい事は殆ど解っていただろう。

 ひょい、とピーブズが手に取った何かを振ってみせた。名前の杖だ! 名前はぎょっとして、それから唖然とした。もっとも話す事ができないから、先程からずっと唖然としてはいるのだが。自分のポケットを探ろうにも、体が動かないのでどうしようもない。ピーブズが名前の気持ちを察したのか、にやっと笑った。
「罰則かな? 地下牢、大鍋、マグル式磨き」
 くるくると名前のハシバミの杖を弄びながら、ピーブズは言葉遊びをするようにそう言った。彼がいつまでもいつまでも、名前をからかい続けたので、名前は自分の中で苛立ちが募っていくのをはっきりと感じた。やがて、ピーブズが「おまえの母ちゃんでーべそ」と言ったのを合図として、名前の怒りが爆発した。
「――いい加減にしてよピーブズ!」
 名前は、本当に突然自分が自由の身になった事を察した。変な所に力が入っていたようで、二三歩よろめきはしたものの、転けずに立つ事ができた。なぜ全身金縛りの術が解けたのか、まったく理解ができない。ただ、目の前のピーブズがニヤニヤしている事だけは嫌でも解っていた。
 動転しながらも、そんな様をピーブズに見せたくないと思った事は確かだったので、名前は何でもない顔を装い、彼の手から杖を奪い返すと、物置の戸をバーンと開いた。一刻も早く、ピーブズを視界から消したかった。ハーマイオニーが、名前が動けないからと思って鍵を掛けていかなかったのは幸いだ。もしも彼女に魔法で錠をされたら、名前はアロホモラだけで此処から出る事が難しかっただろう。
 名前が箒置き場から出ると、ピーブズはにやにやしたまま一緒に外へと出た。
「付いてこないでよ!」
「あーあー、なんて躾のなってない子なんだろう。折角出してあげたっていうのに。お礼の一つも言えないなんて! 常識知らずの感謝知らず!」
「あんたに何のお礼をしなくちゃいけないの! 黙らないと血みどろ男爵に言い付けるわよ!」
 名前は玄関ホールへと戻る間、無言を貫き通していたのだが、ついに辛抱できなくなってそう叫んだ。ピーブズは、一瞬だけにやにや顔を凍らせた。ピーブズにとって唯一にして最大の弱点が血みどろ男爵なのだ。男爵をどうして恐がるのか、その理由は知らないが。
 ピーブズが一瞬、視線を彷徨わせたのを名前は見た。
「――別に構わないよ?」とびっきりのニンマリ顔で、ピーブズはそう言った。
 名前は立ち止まり、ピーブズを睨み付けた。彼は先程、少しだけ顔色を悪くしていたのに、嘘のようにいつもの厭らしい笑い顔に戻っていた。
「そしたら、お前はどうなるだろうね? 男爵様の折角のご厚意を踏みにじって。それに、どっちにしろ校則破りだ。減点だけで済むと良いねえ。停学になるかもしれない、もっと悪けりゃ退学だ!」
 げたげたげたと、ピーブズは空中で笑い転げてみせた。彼の言い振りでは、退学処分が何かとても素晴らしいもののように聞こえてくる。名前は眉根を寄せて、彼を見る。どうやらピーブズは、箒置き場に閉じ込められていた名前の所へ血みどろ男爵がやってきた、その一部始終を見ていたようだった。
「とっとと、消えてよ!」
「嫌だね。やーい、名字の罰則者!」
「ピーブズ!」
 名前の怒りが爆発した。
「良い、あんたみたいなポルターガイスト、追い出そうと思えば追い出せるのよ! とっととあたしの目の前から消えて! さもないとひどい目に――」


 名前は言葉を呑み込んだ。ピーブズの半透明の顔から視線を逸らし、半ば振り返るようにして玄関の大扉を見た。
 寒かった。ひどく寒かった。どうして私はマフラーを巻いていないんだろう? 寒いというより、冷たい。体中の血が凍って、体の芯が一気に凍ってしまったような錯覚に陥った。
 樫の扉がゆっくりと開いていた。
 だんだんと開かれるにつれて、外から漏れる月の光が玄関ホール内を照らした。ただ、その仄かな光は全然暖かく感じられなかった。むしろ、ドアが開くに従って冷気が入ってきているようだった。隙間風にさらされ、燭台の炎が揺らめいた。
 外から、一人の男が入ってきた。名前の勘違いでなければ、昼間ぶつかったあの男だ。真っ黒い口髭を生やした大男。彼の腰元のベルトで、月明かりを受けて銀色の何かがキラリと光った。昼間は気付かなかったがそれは、巨大な斧だった。
 大柄の男の後ろから、更に大きな影がホグワーツの城へと足を踏み込ませた。
 それを見た瞬間、名前は間違いなく体中の血が凍った。
 ディメンターが顔のない顔を、す、と名前の方へと向けた。名前は確かに、吸魂鬼には目も鼻も口もないのに、そのディメンターと目が合ったような気がした。マントを身に纏ったそれがザーっと息を吸い込んだ時、名前は完全に動けなくなった。
「待て、ディメンター、待て!」
 吸魂鬼の異変を感じ取った男が、名前の存在を見つけ、慌ててそう叫んだが、ディメンターは男の制止も聞かずにするすると名前の方へと動き出した。名前は体中ががくがくと震え、一歩一歩後退するのがやっとだった。
 段々と意識が朦朧としてきた。忍び寄ってくる冷気、歩み寄ってくる恐怖、そっと手を寄せてくる気持ちの悪さに、名前はふらふらになりながらも後ろへ後ろへと下がった。男は尚も叫んでいたが、何と言っているのか既に名前には聞き取れなかった。吸魂鬼は一歩一歩、しかし確実に名前へと近付いてきていた。名前は気を失わないようにするのがやっとだった。
 足が石の境目にガッと躓き、尻餅を付いて倒れた時、名前は麻痺していた感情が、ぶわっと膨れ上がったのを感じた。ディメンターはすぐそこまで近付いてきている。最早、立ち上がることはできない。尻餅をついたまま、名前はずりずりと後退したが、勿論吸魂鬼の歩みの方が早かったし、気付けば壁際に追い込まれ、もう一歩も後ろへ下がることはできなかった。死刑執行人の男は、いつの間にか姿を消していた。
「っ……やだ……」
 自分でも理解できないまま、言葉が漏れた。
 名前の眼には、目の前のディメンターの真っ黒い姿と、吸魂鬼によって呼び覚まされたのであろう父親の最期の姿が写っていた。狼人間と戦った時のあの悲痛な叫び声も聞こえていた。ザーザーというディメンターの息も聞こえていた。名前は必死になって自分のローブをまさぐったが、肝心の杖はどこにもなかった。名前は杖を持っていなかった。
 体中ががくがくと震えながら、名前は縋るような思いで後ろを見た。ピーブズは、いつのまにか姿を消していた。名前は一人だった。
「お願い……来ないで……」自分の口から出た筈の声は、まるで自分のものでないようだった。
 すぐ側までやってきた吸魂鬼は、ゆっくりと名前の傍らにしゃがみ込んだ。名前は自分の両頬に、冷たい手がぴったりと添えられるのを感じた。そのくらいは、まだ名前にも判断ができていた。ぐいと上を向けられ、名前は真っ向からディメンターと向き合った。
 月明かりに照らされたフードの中は、全くの暗闇だった。しかし目が慣れると、段々とそのおぞましい輪郭が、嫌にも見え始める。吸魂鬼の顔には目も鼻もなかった。眼孔は落ち窪んでおり、鼻がある筈の場所はうっすらとその鼻梁があるだけだ。だが、口はあった。ぽっかりと穴が空いていて、そこからザーザーと空気を吸い込んでいた。
 名前はまさに今自分が、吸魂鬼の接吻を受けようとしている事が解ったが、どうする事もできなかった。吸魂鬼が動くのを待つばかりだった。もしかしたら、こうして父の死に際の声を聞き、真っ暗な孤独を味わうより、いっそ何もかもを失ってしまう方が楽かもしれない。名前は目を閉じることすらままならず、吸魂鬼の暗い顔を見詰め続けた。
 ――不意に、名前の視界に銀色の光が飛び込んできた。
 ぐわっと、銀色の大きな何かに突き飛ばされたディメンターは、大きく吹き飛んだ。体中の力が抜けていた名前は、吸魂鬼によって支えられていたようなもので、糸が切れたようにばったりと床に倒れた。名前は最後の力を振り絞り、顔を横に向ける。銀色に輝くパトローナスが、吸魂鬼に突き当たり、一瞬の間の後、吸魂鬼は黒い靄のような物へと変わり雲散霧消した。
 ディメンターが消滅した後、名前は先程までの冷気が引いていくのを感じた。体が段々と暖かさを取り戻していた。少なくとも今、名前は生きている。気を失う寸前に、蹄の音を聞いた気がした。目映い光を瞼の裏に感じながらも、名前はそのまま意識を手放した。

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