ルーナ・ラブグッド

「ああ――」名前は、どうもありがとう、と続けるつもりだった。しかし途中で言葉をどこかに忘れてしまった。微笑したまま固まった名前を、女の子は不思議そうに見上げた。
 名前が絶句したのは、偏にその女の子が原因だった。彼女のにごり色の髪の隙間から、耳飾りが見えていた。それは見間違えでなければ、小さな赤蕪だった。視線を少し上にずらせば左耳に杖を挟み込んでいるのが解ったし、首元にはお菓子の空箱と思われる物を繋ぎ合わせた首飾りを垂らしていた。
 一目で分かる異様な雰囲気に、思わず名前ですら、どういう反応を示せば良いのかと悩んだ。
「……何?」女の子が聞いた。よくよく見てみれば、赤蕪の女の子はレイブンクロー生だった。
「――ううん、どうもありがとう」
 名前は女の子から紙の切れ端を受け取った。羊皮紙は名前の私物ではなかった(過去の誰かが古代ルーン文字の活用形を覚える為に書きだした表らしい。角張った字が連ねられている)が、先程名前が引き出した本の中から滑り落ちたらしかった。名前は素知らぬ顔をして適当に本を抜き出し、そのくたびれた紙を赤い革張りの本に挟んで再び本棚に仕舞った。先程の本とは違ったかもしれないが、栞代わりの羊皮紙など挿んだ本人は覚えていないから良いだろう。適当に開いていた上、慌てて本棚に戻したので、どれが元の本だったのか解らなかったのだ。
 名前はそのまま、他の本に気を取られたふりをしていたが、やがて根負けした。
「アー……他に何か用?」名前が聞いた。
 レイブンクローの女の子は、先程引っ張った時から、ずっと名前のローブを握ったままだった。
「あたし、あんた知ってるよ。あんた、名前・名字だ」
 名前は見ず知らずの女の子に名前を知られている事に対して少し驚いたが、彼女がその後続けた言葉に思わず顔を顰ませた。

「ハッフルパフの救世主の。そうでしょう?」
「そう呼んだ人も居たかもね」
 名前は些かつっけんどんに答えた。知り合いでもない子に親切にしてやるような優しさは、あいにく持ち合わせていなかった。そもそも、その綽名は嫌々呼ばれていたのだから、多少冷ややかな返答になったとしても仕方がない事だろう。
 女の子は名前が冷たくあしらっても、全く気にしていないようだった。
「気に入ってないの?」
「それが解るんなら、もう二度と呼ばないでくれる?」
「いいよ」女の子はどこか夢見がかったような声で、あっさりとそう答えた。「でも、救世主って良いと思うんだけどな。だって、格好いいんだもン」
 名前は少し驚いて、その女の子の顔を見つめた。随分率直に物を言う子だと思ったのだ。しかも、それに対して名前がどう思っているかなんて、彼女は全然気にしていないようだった。
 女の子の右手は、いつの間にか名前のローブから離れていた。そのまま踵を返し、ふわふわと歩き去っていったので、名前は唖然として、思わず彼女の姿が見えなくなるまで見送ってしまった。レイブンクローの女の子が居なくなった次の瞬間にジニー・ウィーズリーが現れたので、名前は少し驚いた。どうやら、出るタイミングを計っていたらしい。
「こんにちは、名前」本棚の影からひょっこりと顔を覗かせたジニーがそう言った。
「ええこんにちは、ジニー」
「ねえ、名前ってルーニーと知り合いなの?」
 うずうずとしながら、ジニーはそう聞いた。
「……ルーニー?」名前は聞き返した。
「さっき一緒に居たでしょう? 悪いけど、見てたの。ルーナ・ラブグッドよ」
 名前はジニーが言ったのを聞いてから、先程の赤蕪の女の子の名前を知らなかった事に気が付いた。ジニーが言うには、彼女は変わり者のラブグッドと呼ばれていて(その理由は名前にもよく解った)、皆からも遠巻きにされているらしい。学年で一番の変人なのだそうだ。ジニーもそう説明しながら、小さくクスクスと笑っているのを名前は見た。
「レイブンクローの友達が言ってたんだけど、彼女、先生達にも困られてるんですって。ほら、ヤドリギにはナーグルが居るとか、とんちんかんな事言うから」
「ふうん」名前が言った。
 名前は先程の、ルーナという女の子の事を少し考えた。確かに名前も奇抜なファッションに呆気にとられたし、あけすけな物言いにむっとした事は本当だった。自分じゃ絶対にやらないな、と思った事も。
「あたしはあの子、良い子だと思ったけどね。とりあえず――」名前はゆっくりと、言葉を選んで言った。「――人を馬鹿にしてる感じはなかったしね」
 暗に含めた事を理解したのだろう、ジニーは途端に不安そうな顔になった。
「あの……名前、あの子と知り合いなの? ルーナと――?」
 名前は首を横に振った。そしておどおどしたままのジニーを残したまま、その場を後にした。自分の考えを押し付ける気にはならなかったからだ。名前が言った事をどう解釈して、どうこれからを過ごしていくのか、それはジニーの問題だ。

 ジニーがラブグッドを馬鹿にしたって、別に構わないと名前は思っていた。もしもそれは間違っているという人が居たら、是非その人にお目に掛かりたい。そんな聖人君子のような人間は、まず物語の中でしか会えないだろう。誰だって、会った人全員と上手く付き合えるわけじゃないし、それは言い換えれば誰かを馬鹿にしたり嫌ったりするのは当たり前なのだ。もちろん、名前だってそうだ。
 ただ、名前がラブグッドに好感を持った事は事実だった。彼女は名前が嫌だと言ったら、素直に頷いてくれた。それが当たり前だというように。きっとこれからも、救世主だなんて呼ばないだろう。


 名前はジニーと別れた後、ルーナ・ラブグッドの姿を探したが、結局その日は見つからなかった。再び彼女を見たのは、四日後の事だった。薬草学関係の書棚の間で一人腰掛けているラブグッドは、別段おかしな事をしているわけではないのに、やはり独特の雰囲気を醸し出していた。彼女はレポートを書いているようだった。ただし、両手で羽ペンを使って。
「ハイ。ねえ、ここ座っても良い?」
 名前がそう声を掛けると、ラブグッドは羊皮紙に覆い被さるようにしていた姿勢を少しだけ起こした。視線だけを此方に向けると、彼女の目は少しだけ驚いたように見開かれた。もっとも彼女は、生まれつきなのか、他の人に比べて目が大きく開いていて、いつも驚いたような表情をしていたが。
「良いよ」ラブグッドはそう言って、辺りに散らばっていた持ち物を少し自分の方に寄せた。
「聞きたい事があるんだけど……ナーグルって何?」
 名前は彼女が両手で綴っているらしいレポートを見ながら言った。右と左の両方から力が加わって書かれた文字は、ミミズがのたくった跡のようにぐちゃぐちゃだった。羽ペンの不格好な動きが止まったのを不思議に思い、名前がふと視線を上げると、ラブグッドが此方をじっと見ていた。(これも生まれつきの体質らしい)まったく瞬きをせずに名前を見つめ続けているので、名前は内心で、話し掛けた事を半分ほど後悔した。
「ヤドリギによく居る、悪戯好きな連中だよ。でもちゃんとおまじないをしておけば――」ラブグッドは首から提げた自作らしき首飾りを、ひょいと持ち上げてみせた。「――寄って来ないから、大丈夫なんだ」
「へえぇ……――」名前は生返事とも取れない返事を返した。
 名前は自分が魔法生物に詳しいと自負していたので、そんな生物は聞いた事が無いと言い切る事が出来た。しかしそれを言わなかったのは、彼女を相手に言ったところで何も変わらないだろうという事が、本能的にも雰囲気的にも解ったからだ。
 名前の返事をどう受け取ったのか、期待したようにラブグッドが聞いた。
「名前にも教えてあげようか?」
「ううん、いい――見てみたいし、でも酷い悪戯をしてきたらお願いしようかな」
「そう」彼女は短くそう言ったが、先程よりもどこか嬉しそうだった。

 ラブグッドは名前から視線を外し、再び両手で羽ペンを握ってレポートを書き始めた。おそらくこの難解な羊皮紙を見て、フリットウィック先生は頭を抱える事になるだろう。制作過程を見ている名前ですら、混乱と書いてあるのか爆発と書いてあるのか解らなかった。
「アー……何で両手で書いてるの?」名前が聞いた。
「こうすると、頭の活性化が進行するンだ。雑誌に載ってたんだもン」
 ラブグッドはすぐにそう答えた。残念ながら、活性化された様子は見受けられなかった。
「名前って変わってる」
 彼女が唐突にそう言ったので、名前はぽかんとした。そうするより他に仕方がなかった。よりにもよって明らかに『変わってる』雰囲気の子から『変わってる』だなんて言われたのだ。しかし名前は、「アー……どうして?」と聞き返すだけで、悪い気にはならなかった。
「みんな、そんな事気にしないもン」顔を上げてそう言ったラブグッドは、小さく笑った。

 名前はどうして、ラブグッドに話し掛けたのか。その事については自分でもよく解らなかったのだが、逆に解った事もあった。彼女が見た目とは裏腹に、心根の真っ直ぐな子だという事だ。
「ねえ……――ルーナは、大事な人と喧嘩しちゃったらどうする? 相手が説教をして、それでもされた側はそれを理不尽だと思うの。それで喧嘩になっちゃったら」
 ラブグッドは再び顔を上げた。彼女の色素の薄い瞳が、名前を写していた。
「――考えてみるんだ」ルーナは言った。「相手が、どうしてそう考えるのかって――視点を変えるんだ――そうすればちょっとだけ、どうしてこうなったのかって解るんだ。それから、ごめんって言う。あたしはいつもそうやって、パパと仲直りするんだもン」
 名前はゆっくり、ゆっくりと二度頷いた。

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