クィディッチ競技場のディメンター

「ス、スニッチなの?」
 名前がびしゃっとピッチに降り立ち、真っ先に聞いたのはその事だった。もしもグリフィンドールのシーカー、ハリー・ポッターがスニッチを掴んでいたのだとしたらハッフルパフは負けてしまう。しかも二百点の点差をつけてだ。そんな事になったら、ハッフルパフがクィディッチトーナメントで優勝する確率はうんと低くなる。それどころか、優勝争いに食い込めるかすら解らない。

 この嵐の試合が終わってくれるなら、もうセドリックでもハリーでも良いからスニッチを掴んで欲しい、と心の中で密かに思っていたのだが、もしハリーがスニッチを掴んでいたらと考えた時点で、名前は自分もクィディッチに勝ちたいのだと思っている事が解った。
 しかし最悪の予想に反して、既に集まっていたメンバーは皆、首を横に振った。名前はホッと胸をなで下ろした。考えてみれば、観客席からの拍手も、リーの大絶叫も全く聞こえなかった。
「いいや、向こうがタイム・アウトをとったんだよ」セドリックが言った。
 名前は安心して、ほったらかしだった雨に濡れた顔をぐいっとローブで拭い、後ろ髪をぎゅっと絞り水を払った。嵐の中を飛んでいる内に、いつの間にか髪を縛っているゴムが飛んでいってしまい、名前の髪は結ばれていなかった。
「取れちゃったのね。良いわ、私のを貸してあげる」
 ビーターのコベットがそう言って、名前の髪を結ってくれた。コベットが名前の髪を結っている間に、セドリックが言った。
「でも、まだグリフィンドールが有利だ。五十点差が付いてる」
「悪いな、なかなか点が取れなくて」
 チェンバースが申し訳なさそうに言うと、セドリックは先程名前にしてみせたように、「いや」と首を横に振った。
「僕もだ。なかなかスニッチが見つからない。君が点を稼いでくれて少し安心したよ」
 セドリックはそう言ってから、競技場を見渡した。きっとこの時間に、少しでもスニッチを探すつもりなのだろう。「そうそう」とチェンバースが切り出した。
「さっきの点は、殆ど名前が入れてくれたようなもんなんだぜ」
 名前が?と、セドリックと遅れて到着したキーパーのマホニーが、二人同時に此方を振り返ったので、名前は何だか気恥ずかしくなった。
「名前が上手くパスしてくれたから、俺はシュート出来たんだ」
「凄いわ、名前」頭の上でコベットの声がして、そのまま頭をぽんと叩かれた。「さあ出来た」
 髪の毛は低い位置で上手に結ばれていた。名前は結んでくれたコベットと、パスについて口々に褒めてくれた三人に、「ありがとう」と礼を言った。
 最後にザカリアスとアバンドンがやってきて、全員が揃うと、セドリックが話し出した。
「良いかい、今日は最悪のコンディションだ。けれどそれは相手も同じ。みんな、今までの試合で今日の天気がどんな風なのか解ったと思う。今からはまた、気持ちを新しくして挑んでくれ。――スニッチは、絶対僕が捕まえてみせる」
 力強くセドリックが言うと、皆は頷いた。そしてセドリックもそれに頷き返し、それからは無言でハーフタイムを過ごした。みんな思い思いに試合の事を考えているらしく、静かに時間が過ぎていった。


 グリフィンドール・チームが組んでいたスクラムが解かれたと同時に、フーチ先生が合図した。再びクィディッチの開始だ。雨の中に出ると、みんなすぐさま再び全身ぐしょ濡れになった。キーパーの二人が定位置に付き、試合が再開された。
 試合は先程より、更にのろのろと進んだように感じた。流されないように姿勢を低くして箒にしがみついていると、いつもの倍疲れてしまうようだった。それでも名前が箒から落ちたりしなかったのは、高性能のニンバス2001のおかげだったかもしれない。後でちゃんとクラッブと、そしてマルフォイにもお礼を言おうと名前は思った。

 雨風に晒されながらも、点差は開きもせず、縮まりもしなかった。飛んでいる様々なもの――ブラッジャーに始まり、生徒達が風にさらわれた傘やマントもそうだ――を避けながら、グリフィンドールの優秀なチェイサー三人相手に、マホニーが奮闘しているに違いないと名前は思った。
 此方が負けているとは思いたくないが、ハッフルパフ・チームのチェイサー三人の内の二人が経験不足だという事は否定しようはなかった。名前は今まで以上に、必死にクアッフルを追った。

 試合が続く内、どんどん空は暗くなっていった。もしかしたら、終わる頃には夜になっているかもしれない。そう言えば昼ご飯だってまだ食べていない。お腹が空いている筈だったが、それよりも先に暖炉の前に陣取りたい。暖かなハッフルパフ談話室を思い浮かべ、気を引き締め直してから、名前も懸命に空を飛んだ。

 びゅんびゅんとクアッフルを追って飛び回っていた時、大きな稲妻が視界の端に映った。バリバリと音を立てて下に向かって伸びたそれは、どうやら禁じられた森の方面に落ちたらしい。そして偶然、名前は見つけた。稲光に照らされ、金色に輝くスニッチだ。上空で風に流されまいとして飛んでいる。
 名前は体を一回転させ、セドリックの姿を探した。
「セドリック! セド!! スニッチ、スニッチよ!!」
 ハリーが何処にいるかなど考えずに、名前は大声で叫んだ。名前の声に反応し、名前の指さす方を見て、くるりと向きを変えて飛び出したカナリア・イエローがセドリックである事を信じ、名前もクアッフルを追う仕事に戻った。
 辺りを見回していると、後ろの方から真紅のローブが名前を追い越していったのが見えた。ハリーだ。彼もスニッチに気が付いたに違いない。頑張れセドリック、と内心で呟きながら、視界の端にもつれ合って飛んでいる赤色と黄色が見えた。チェイサー達だ。
 名前はそう見当を付けて飛んだ。いや、飛ぼうとした。



 突然、競技場の音が飲み込まれてしまったかのようだった。
 細々と聞こえていた観衆の声援がふっつりと途絶え、雨風の音さえ収まったように感じた。
 名前は何も考えられなかった。そしてそんな暇はないのに、何故競技場が静まり返ったのか、凍てついた頭でゆっくり考え出した。クアッフルを追わなくては。解っていたのに、体が全く言うことを聞かず、名前は空中で停止したまま、ぴくりとも動けなかった。この奇妙な感覚に、覚えがあった。
 体の芯から冷えていたのに、益々寒く、冷たくなった。両手がかじかんで、体中震えが止まらなくなった。先程までの飛び回っていた時の汗と違った汗、冷や汗が何処からともなく湧き出した。

 名前は恐る恐る、下を向いた。そして、体が凍りついてしまったように感じた。
 クィディッチ競技場の上空、その真下には、勿論競技場の芝生がある。今は連日の雨でぬかるんでいるが、普段は誰がやっているのか、綺麗に刈り込まれた綺麗な場所だ。あったかい、名前が好きになった場所の一つだった。
 競技場のグラウンドは真っ黒だった。
 名前は確かに、ホグワーツ特急で本物を見ていた。しかしこれほどの数のディメンターが一度に居るところは初めて見た。ざっと百人は居る。競技場を埋め尽くし、観客席に恐怖を与えたディメンターの大群は、ずるずると行進しているらしく、縦に左右にと蠢いていた。


 名前は言い知れぬ恐怖に襲われながら、ニンバス2001の柄を握り締めた。そうすれば何故か、勇気を分けて貰える気がしたのだ。無機質な、ただの木の枝の筈なのに、握り締めたニンバスの柄は何故か暖かかったように感じた。

 そして、名前は見た。視界の端で、何か大きなものが落下していくのを。
 ハリーだった。
 ハリー・ポッターは箒から手を放し、地面に向かって落ちていた。彼の箒は主人を見失い、だんだんと遠くへ離れていっている。重力に従い落ちていく彼に、名前は体中の血が抜かれていく気分だった。そして何も考えず、箒を前へと突き出した。

 ――間に合いますように、間に合いますように、間に合いますように! でなければ、ハリーが地面に激突してしまう。名前は自分がディメンターにショックを受けていた事すら一瞬忘れ、無我夢中でハリーに向かって飛んだ。
 落ちているのは真紅のローブを纏った選手で、やはりハリーだった。
 後ちょっと、後ちょっとで手が届く――名前は片手を箒から手を放し、思い切りハリーの方に伸ばした。触れたと思ったら雨ですべり、ハリーの体はどんどん下に落ちていく。名前もどんどん急下降した。左手だけでも、ニンバス2001はちゃんと言うことを聞いてくれた。

 ――決して放さぬように。

 霧のかなたからの声だ。
 名前は、ガッとハリーを抱き留める事が出来た。が、足だけでは流石のニンバスも操る事は困難で、気絶したハリー共々、名前は嵐の中を落ちていった。風が邪魔をし、雨が名前を苦しめた。名前もハリーもびしょ濡れで、ともすれば滑って落ちてしまう。しかし、名前は決して放さなかった。
 名前も暗い空を落ちていきながら、段々と気が遠くなっていくのを感じた。音を取り戻した競技場から、此方に気が付いたたくさんの生徒達の悲鳴が上がっていた。リーがマイクの前で絶叫しているのが解った。スニッチを掴み、此方を振り向いたセドリックが、「名前!」と叫んでいるのが解った。

 名前が意識を失う前に解った事は、雨に濡れたハリーの体が思いの外暖かかった事と、土の匂いが近くなってきて、激突すると思った寸前、ふわりと体が軽くなった事。そして、銀色に光り輝く大きな鳥が、クィディッチ競技場を飛び回っていた事だった。

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