ボガートの写す恐怖

 名前はてっきり、ボガートが憤怒の形相をした、自分の名付け親に変身すると思っていた。
 パチンという小気味の良い音がした後に現れたのは、名前の予想を遙かに超えた姿だった。
 吸魂鬼が名前の前に立ちはだかった時、名前は急に息をする事が出来なくなってしまったようだった。吸魂鬼がガラガラと息を長く吸い込むと、名前にはあの時の光景が――あの男の高笑いが、血で染まった父の死に顔が、あの冷たい横顔が、孤独の全てが、一度に名前を包み込んだ。
 杖を握っていたのかどうかさえ、名前には解らなくなってしまった。


「アイタッ」
 がばっと飛び起きた名前の目に飛び込んできたのは、額を押さえたセドリック・ディゴリーだった。君って結構石頭なんだね、と、セドリックは苦笑した。
 名前には、此処は医務室であるらしいという事、そして自分の父親はもう何年も前に死んだ筈なのだという事を理解するのに、いくらかの時間が必要だった。
「あたし……」名前が呟くと、セドリックは優しく微笑んでから言った。
「君は、闇の魔術に対する防衛術の授業で気絶したんだよ、名前」
「ええそうですとも。ですから、ミス・名字には休養が必要なのです」
 奥から現れたマダム・ポンフリーは、若干いらいらしているようだった。
「まったく……あの人達ときたら、此処が医務室だという事を忘れているのではないでしょうね。まったく。――さあ、ミス・名字、まずはチョコレートをお食べなさい」
 マダム・ポンフリーは名前に、板チョコレートの大きな欠片をずいっと差し出した。彼女の言った「あの人達」というのが、廊下でじゃれあっている生徒達の事だということが名前には解っていた。ぼんやりとした頭にも、楽しそうな声は響いてきた。きっと、今は昼休みなのだろう。窓の外から明るい日差しが差し込んでいる。
「ミス・名字、大丈夫ですか? どこか調子の悪いところは? 頭は痛くありませんか? まね妖怪とはいえ、吸魂鬼の影響をまともに受けたのですから、それなりの処置をしなければなりません。何処か痛い所は?」
 名前は口の中にどろりと残っていたチョコレートをごくりと飲み込んでから、ゆっくりと首を横に振った。
「平気です、マダム・ポンフリー」
「そんな筈はありません。貴方はばったりと倒れたのですよ? どこも平気な筈がありません」
 暫く問答を繰り返したが、頑固に平気だと言い張る名前に、遂にマダム・ポンフリーが折れた。
「――良いでしょう。しかし暫くは休まなければなりません。週末の休日を楽しく過ごしたければ、後三日間、安静に過ごしなさい」マダム・ポンフリーはこれで決まりだ、という風に言ったが、名前が反論した。
「――そんな! 明日は魔法生物飼育学があるのに!」
 名前とマダム・ポンフリーは再び問答を繰り返した。しかし今度もマダム・ポンフリーが折れ、彼女は憂さ晴らしをするかのように、廊下で騒いでいる生徒達を追い返しに行った。
「――本当に平気みたいだね」
 ずっとベッドの横の見舞客用の小さな丸椅子に腰掛けて、二人のやりとりを見ていたセドリックが言った。彼は小さく肩を揺らしていた。
「でも、本当に休まなくちゃ駄目だよ。無理をする必要はないんだから」
「やだな。あたし、無理なんかしてないよ、セドリック」
 名前がそう言うと、セドリックは何かを言いたげに口を開いたが、結局何も言わず、ただ小さく微笑んだ。

 セドリックが出ていった後、驚くほどすぐに訪問者がやってきた。
「明日は飼育学があるんです、か」
 クラッブは呆れたように名前を見てから言った。先程までセドリックが座っていた丸椅子にどっかりと腰を下ろす。彼はわざとらしく目を細めながら、再び口を開いた。
「僕だったら、授業を休める時に、わざわざ行きたいなんて言わないぞ」
「だって、魔法生物飼育学は受けたいもん!」
 クラッブは名前の事を、「まったく狂っている」とでも言いたげな目を向けた。言いたいことは解るが、それを口に出さないのは彼の気遣いだろうと思う。まあ、お菓子に目が行っているからというのもあるかもしれないが。クラッブは名前のベッドの脇に置かれていた小机の上に並べられたお見舞いの品の中から、バーティー・ボッツの百味ビーンズを選び出すと、名前の方を見た。名前が頷くと、クラッブはそのままバリバリと包装を開け、アーニーからの見舞いの品を食べ始めた。
「ねえ、そっちのベッドに誰か居るの?」
「ああ……ドラコが居るのさ。今は寝てるけどね」
「マルフォイが?」
 名前が目を丸くすると、クラッブは食べる手を一旦止め、名前の方に向き直った。
「そうさ」クラッブは肩を上げ下げした。
 言いながら、引き当てたビーンズを口に放り込むと、彼は顔を顰めた。どうやら、パセリ味のタフィーはお気に召さなかったらしい。


 医務室でジッとしている間に知ったのは、どうやら名前が闇の魔術に対する防衛術で気絶したという事に、若干の尾ひれがついてホグワーツ中に広まっているらしいという事だった。何故だか名前は、まね妖怪が変身したスネイプ先生に失神の呪文を唱えられて吹き飛ばされた、という事になっているらしい。その事は、放課後に見舞いに来たレイブンクローのアンソニー・ゴールドスタインが親切にも教えてくれた。彼も半信半疑だったが、名前は更に訳が分からない。
 スネイプ先生云々の出所は、グリフィンドールの三年生なのだそうだ。一体何故名前が医務室に入院した事にスネイプが出てくるのかは解らないが、何にせよスネイプ先生がお教えになる魔法薬学の授業を休んでしまう羽目になった名前は、薬学の次の授業がとてもお楽しみな事になってしまった。スネイプは無断で欠席した名前を、存分に可愛がってくれるだろう。嫌と言うほど。
 マダム・ポンフリーは忙しなく医務室の中を歩き回り、名前と、それからマルフォイの面倒を看た。薬を飲んで、チョコレートを食べただけの名前と違い、マルフォイの右腕は包帯でグルグル巻きだった。白い包帯が何とも痛々しかったが、見た目とは違い、マルフォイは案外元気そうだった。名前は一度だけマルフォイと目が合ったが、彼がばつの悪そうに視線を逸らしたので、結局どうしてそんな怪我をしたのだとかは解らなかった。世間話くらいは普通にする仲だとは思うのだが、この時のマルフォイはどうしてか一切口を利かなかった。

 名前が医務室から退院したのは、次の日の朝だった。名前の希望通り、マダム・ポンフリーは渋りはしたものの、朝一番に退院させてくれた。これで、一番の楽しみだった魔法生物飼育学も何の問題もなく受けられるだろう。
 朝食を食べにテーブルに着いた途端、すぐさまハンナがやってきた。あまりの素早さに、名前は彼女が姿現しをしたのではないかと思った程だ。
「おはよう、名前。もう良いの? マダム・ポンフリーは退院しても良いって仰ったの?」
 矢継ぎ早に質問してくるハンナにぷっと吹き出したくなるのを堪え、名前は口を開いた。
「うん。もう授業に出ても良いって。倒れただけだしね」
 名前が言うと、ハンナはホッとしたように息を付き、そのまま名前の隣に腰掛けた。
「それなら良いの。名前が元気になってくれて良かったわ」
 ハンナはそう言ったのを最初に次々に名前に話しかけた。名前が朝食の茹でたじゃがいもを飲み込む隙も無い程にだ。半日会えなかっただけなのに、ハンナは饒舌だった。だがそれは、名前は嫌ではなかったし、嬉しかった。
 彼女が言うには、昨日の内に二度医務室に見舞いに行ったのだが、二度とも名前に会うことは出来なかったそうだ。一度目にスーザンとアーニーとジャスティンと共に行った時には、名前はまだ気絶していて、マダム・ポンフリーに追い返されたらしい。二度目にスーザンと二人で行った時は、誰かが医務室前の廊下で大騒ぎした後で、マダム・ポンフリーの機嫌がすこぶる悪く、再びマダムに追い返されたのだそうだ。
「あの双子には参っちゃうわ。だって、昨日ずっと名前に会えなかったのよ」
「そっか」
 名前が曖昧な返事をしたのにも関わらず、ハンナは気にしなかった。
 まね妖怪とスネイプ先生を結びつけたのは、どうやらネビル・ロングボトムであるらしい。どうして彼が、わざわざ名前がスネイプ先生に失神させられたなどと言ったのかと思ったら、実はそうではないらしい。なんと、ネビル本人が闇の魔術に対する防衛術の授業でボガートをスネイプ先生に変身させたのだそうだ。つまり、ネビルが一番怖いものはスネイプだということになるのか。とにかく、その事が名前が吸魂鬼に気絶させられた事とごちゃ混ぜになり、噂になったようだ。そしてそれがアンソニーの耳に入ったらしい。本当の事を知れたかどうか、後で彼に聞いてみようと名前は内心で笑った。

「ねえ、ボガートだけど」名前が言うと、ハンナは動かし続けていた口を閉じた。
「どうしてハンナのボガートは、ナールに変身したの?」
 名前が聞いた事が予想外だったのか、ハンナは最初に少し驚いたような顔をしたが、やがてぎゅっと口を噤んだ。名前が再び聞くと、ハンナはやっと口を開いた。
「笑わないなら教えるわ」
「うん、笑わない」
 名前がもっともらしく頷いたのを勘ぐったのか、ハンナはまた暫く何も言わなかったが、ついに口を開いた。
「あいつらは悪魔なのよ」名前は何も言わなかった。
「みんなあの見た目に騙されてるんだわ。あいつら、凶暴なのよ。私、五歳の時に、指を食いちぎられるところだった。撫でようとしたらね、いきなりがぶりよ。パパが居なかったら私は四本指になってたわ。ほんとよ。――もう! 笑わないでったら!」
 名前の頬がひくひくしているのを見て、ハンナは声を上げた。
 ハンナの言うことだけを聞いていたら、ナールがアクロマンチュラのような何かかと思ってしまうかもしれない。マグルで言うハリネズミであるナールをこれほど怖がっている子なんて、名前は初めて見た。彼女の言い方が、蜘蛛が嫌いだと言っていたロン・ウィーズリーにそっくりだ。
「笑ってない、笑ってないよ、ハンナ」
「笑ってるわ! だって怖かったんだもの! 本当に、怖かったわ」ハンナはぶるりと頭を振った。
「解ったよ。――先に謝っとくわ。ごめんね」
 言ってから、名前はげらげらと笑い出した。
 名前の笑いが一通り収まった時には、ハンナはぷりぷりと怒っていた。
「名前ったら」
「だって、あんなちっちゃなのに怖がってるハンナが可愛くて」
 名前が再び笑うと、ハンナはキッと睨んだが、名前は気にしなかった。

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