ルーピン先生の授業

 不機嫌でいるのはやめよう。そう、思った。
 名前はホグワーツに吸魂鬼が居る事になると知った時から、自分でも解るほど、そして押さえられないほど不機嫌になっていた。それは数日経った今だって、変わりはない。相変わらずむかむかしたし、ちょっとした拍子に吐いてしまうかと思うくらい気持ちが悪くなる時もあった。
 しかしハンナに言われてから、名前は努めて平気を装うことにした。吸魂鬼がホグワーツの出入り口を固めていることに対して文句を言ったり、他の誰かに八つ当たりしたりしないように気を付けた。吸魂鬼がホグワーツに来たことに対して未だ納得はいかないが、彼らのことを極力考えないようにした。
 だってそれは、不機嫌にならないようにするための一番の方法なのだから。


 魔法薬学で減点されたり、スネイプ先生に減点されたり、スネイプに罰則を言い渡されたりする頃には、名前は休みボケから立ち直る事ができていた。九月の日差しが差し込む中、名前達ハッフルパフの三年生は、教室で授業が始まるのを待っていた。この日の一限目は、今学期に入ってから初めての、闇の魔術に対する防衛術の授業だった。防衛術は、皆が心待ちにしていた授業なのだ。
 教室がざわざわと声に包まれているのは、授業が始まる前の常だった。しかし今日ばかりはそれも心地よく感ぜられる。皆の思いが一つになっている。奇妙な連帯感は、これからの授業をますます待ち遠しくさせるようだった。
「ねえ、新しい先生はどんな授業をなさるかしら」
 ハンナが名前に聞いた。彼女は彼女らしく、「去年はまともな授業じゃなかったんだもの」なんて事は微塵も言わなかった。もっとも、彼女は授業は褒めずにいてこそすれ、ロックハート著のファンではあったのだから、当然と言えば当然だ。
「そうだね、去年はまともな授業じゃなかったもんね」
「もう名前ったら! 冗談でも、そんな事言っちゃ駄目よ」
 いつも通りのハンナに、名前は肩を竦めた。

 始業のベルが鳴り、先生が教室に入ってきた時、教室のざわざわは自然と収まった。
 ルーピン先生は新入生歓迎会の時と同じような、ぼろぼろのローブを着ていた。むしろ同じローブなのかもしれない。若そうに見えるのだが、鳶色の髪の毛には白髪が目立っている。いつでも疲れたような顔をしているな、というのは名前が抱いた印象だ。
 だが、いくら継ぎ接ぎだらけのローブを纏っていようと、白髪の目立つ頭をしていようと、ホグワーツ特急の中で吸魂鬼から助けてくれたのは、この人だった。歓迎会の時、ハンナに小突かれなくても、名前には解っていた。ルーピンが浮かべる微笑は、何故だか人を安心させる。宴会の時もそうだったし、ホグワーツ特急で見た時も、そして今もそうだった。ひ弱そうに見えるが、この人は闇の魔術に対する防衛術の教師なのだ。
 ルーピン先生は黒板の前に立ち、教室を軽く見回してから話し出した。穏やかな口調は彼の人柄の良さを思わせた。
「初めまして、私はリーマス・ルーピン。今年から君達に、闇の魔術に対する防衛術を教えることになった。前任のロックハート先生がされていた事は、書類を頂いたから知っているよ。君達は防衛の術を書物から学んでいたそうだ――」
 斜め前の席に居るザカリアス・スミスが、それはどうかなという顔をした。
「――だからとでも言えば良いのか、私は君達に主に、実践を通して学んでもらおうと思っている。何故なら経験とは、何にも勝る学習法だからだ。知識は有る分には困らないが、それを知っているだけでは意味がない。知恵を働かせなければ――闇の魔術とは、流動的なものなのだよ。毎回同じパターンでやってくるわけじゃない。――今から魔法をかけますよ、なんて、君達だって言わないだろう? ――まあつまり、考え方、見解の多様性を学んで欲しいわけだ」
 ルーピン先生は一度言葉を区切った。
「さて、教科書を鞄にしまってくれ。場所を変えて、話はそれからだ」
 みんな不安げに顔を見合わせ、おずおずと教科書を自分の鞄に仕舞い始めた。これまでの闇の魔術に対する防衛術の授業で、場所を変えて何かをするなんて初めてだったからだ。教室の一番前の席を陣取っていたアーニーが、ガッカリしたように鞄に教科書を詰め込んでいるのを見て、名前は小さく吹き出しそうになり、ハンナに不思議そうな顔をされた。
「――さあみんな、私についてきてくれ」ルーピン先生は微笑んで言った。

 授業中だったので廊下には人っ子一人居なかった。これからどうするんだろう、一体何をするんだろう、と小さく(といっても、みんながそうしていたので、実際はそれほど静かではなかった)おしゃべりしていても、ルーピン先生は微笑んでいるだけで、特に注意はしなかった。ただ、大きなタペストリーの前を通った時、このタペストリーは前に立って無言で二十秒間居ると、自然と秘密のドアが出てくるから、今度試してみると良い、とだけ言った。
 ルーピン先生の引率によって辿り着いたのは、職員室だった。古い飾りの付いた板壁やら、先生達の趣味の入ったデスクやらに、きょろきょろと目を向けている生徒が多かった。職員室なんて、普段縁の無い場所なのだ。もっとも名前は、以前に一度だけ職員室に来たことがあった。
「私、職員室に入るのって初めてよ」ハンナがこっそりと名前に囁いた。
「うん、あたしも」名前はさらりとそう言った。
 初めて入った禁じられた森で、森番のハグリッドに見つかって、首根っこを摘まれてスプラウト先生の前に差し出されたなんて、ハンナに言う必要はないと思ったのだ。もしそれを知れば、きっとハンナは名前の過去の悪戯に、きゅっと眉を上げるに違いない。
 ルーピン先生の指示に従い、みんなは職員室の奥まで入った。場所を作ってくれたのであろう職員室の奥には、古びた洋箪笥がぽつんと置いてあった。若干押し合いへし合いしながらも、名前達はルーピン先生が口を開くのを待った。
「さて」ポン、と手を叩きながら、ルーピン先生は言った。
「みんな、彼処に置いてある洋服箪笥が見えるかな? あの中に、今日君達に教える魔法生物が入っている。丁度昨日、箪笥の中に入り込んでいたのを見つけたんだよ。三年生の実習に使うために、退治せずにもらっておいた。
 さて問題だ。その生き物は、それこそ箪笥のような、暗くて狭い所を好んで生息している。魔法使い魔女達のちょっと年季の入った家なら、普通の家庭にも現れる、よく居る害獣だ。呪文と方法とを知っていれば、簡単に駆除できる。だが実はその生物が一体どんな姿をしているのか、私も知らない。一体、あの箪笥の中に居るのは一体何なのでしょうか? スーザン、わかるかい?」
 突然指名されたスーザンはちょっと考え込むようにしてから答えた。
「ボガート、まね妖怪ですか?」
「その通り。正解だよ」ルーピン先生は驚いたように言って、微笑んだ。
「スーザンが答えた通り、あの箪笥の中にはまね妖怪が入っている。形態を模写する生物だ。ボガートは相手の心内を読みとり、姿を其れと決めた物に模写をする。単純であり、実はとても厄介なものでもある。それは何故だかわかるかな、アーニー?」
「まね妖怪は対峙した相手が一番怖いと思っているものに姿を変えるので、まね妖怪の退治法を知っているだけでは対処しきれない場合があるからです」
「その通り。とても上手く説明してくれた」
 アーニーはふふんと胸を張った。
「例えば、自分の一番怖い物が、自分の母親から届いた吼えメールだったとしたら? あれはメッセージを伝え終わるまでは消滅したりしないものだ。延々と吼え続ける吼えメール。消そうにも、五月蠅すぎて杖を構えるのも億劫だった」ルーピン先生はにこりと笑っていたので、みんな遠慮無く笑った。


 生徒全員に、まね妖怪を退治する呪文『リディクラス』を何度か練習させた後、ルーピン先生は再びポンと手を叩いた。
「さて、じゃあそろそろ実際に、ボガートに立ち向かってみようか」

「みんな、自分が一番怖いと思うものを、そしてどうやったらそれを面白可笑しくできるかを、考えてくれるかな。ボガートが迷わずに済むようにね」
 ルーピン先生が説明するには、ボガートにリディクラスと唱えると、ボガートは自分が一番恐ろしいと思っているものから、呪文を唱えた時に思い描いていた姿へと、一瞬で変化してしまうのだそうだ。
 ちらっと周りを見回すと、目を瞑って考えている生徒が多かった。ハンナもそうだ。名前も言われた通り、怖いものを思い浮かべた。一体、自分が一番怖いものは何だろう。
 ルーピン先生が教室を見回しながら、箪笥の前を指し示したが、誰も名乗りをあげなかった。みんな、一番初めなんてとんでもないと思っているらしかった。一瞬の沈黙があった後、アーニーが手を挙げて箪笥の前に進み出た。
「いいぞ、アーニー。落ち着いてやれば、きっと出来る筈だ」ルーピンは微笑みながら言った。
「はい」アーニーは、多少なりとも緊張しているようだった。

 ルーピン先生が杖を振ると、衣装ダンスの鍵がかちりと開く音がした。開いた扉の中からぬっと出てきたのは、血の気のない顔をした背の高い男だった。なんで恐いんだろうと思って見ていると、不意にその男は口を開いた。かぱりと開けられた口に見える歯は、普通のそれより若干大きい。
「吸血鬼ね」斜め前に居たスーザンの呟きが聞こえてきた。
「リディクラス!」
 アーニーが叫ぶと、吸血鬼はパチンという軽快な音と共に、小さなコウモリへと変わっていた。コウモリはよろめきながら宙を飛んだ。
「上手いぞ」ルーピンが言った。「さあ次だ! ジャスティン、前へ!」

 ジャスティンがキッとした顔つきで前に出た。コウモリは大きな虎に変わり、猫に変わった。スフィンクスがテディベアに変わった。パチンパチンとまね妖怪は姿を変えていった。大蛇が毛糸に変わって編み棒でセーターへと編まれていくのを見ながら、名前は考えた。名前はドラゴンも大蜘蛛も、蛆虫だって平気だった。自分が一番恐いものは何か、なんて普段は考えたことも無い。
 前に出たハンナの前に飛んできた蝶は、一瞬にしてナールに変わった。皆が不思議そうな顔をしている中、一人真っ青な顔のハンナがリディクラスと唱えているのを見ながら、名前は怒った名付け親が一番恐いかもしれない、という結論に至った。ハンナがリディクラスと叫ぶと、彼女の目の前に居たナールは、途端に針が抜け落ち、恥ずかしそうに縮こまった。
「いいぞ、ハンナ! さあ名前、次だ!」
 ルーピン先生が名前に声を掛けた。名前は其れに従い、一歩前に出てボガートが変身するのを待った。


 名前は、まね妖怪をとてもユニークな連中だと思い始めていた。じっくりと名前を見つめたまね妖怪は、一瞬にして姿を変えた。

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