ホグワーツのディメンター

 おもむろに、ジャスティンがチョコレートを差し出した。ハニーデュークスで売っている、種も仕掛けもないただの板チョコだ。
「名前、ルーピン先生――さっきの人だよ――が、これを食べなさいって」
 まだめそめそしているハンナの背中をさすりながら、名前はチョコレートの大きな欠片を受け取った。不思議なことに、一口齧り付いただけで、冷気に包まれていた体に何か暖かいものが広がっていくようだった。名前は急いでチョコレートを詰め込んだ。詰め込めるだけ詰め込んだ。もごもごと口を動かしている名前を見ながらスーザンが言った。
「名前、大丈夫なの?」
「うん」名前が言った。「もう大丈夫」
 嘘だった。本当は全然、大丈夫などではなかった。チョコレートの甘さで落ち着きはしたものの、まだ寒かったし、気分は最低だった。もう一生幸せな気分になれないんじゃないか、なんて馬鹿な事をずっと考えていられそうだ。
 ただ、そんな事を今ここで言う必要はない。
「クラッブ達は?」名前が尋ねた。
 名前が目を覚ました時、既にスリザリン三人組の姿はなかった。
「ちゃんと帰ったわ」名前は安心した。「それに、もうそろそろ、ホグワーツに着く頃よ」

 名前が気を失ったすぐ後に、照明が灯り、列車は再び無事に動き出したそうだ。名前が武装解除で吹っ飛ばしたおかげか、それとも上手く扉が接着されていたおかげか、吸魂鬼は二度とやってこなかったらしい。
 しかし、何度起こしても名前は目を覚まさなかったそうだ。巡回に来ていたルーピン先生が名前達のコンパートメント内の異変に気付き、融着されていた扉を無理矢理こじ開けた時、突然起き上がり、その後――これは名前も覚えていたが――すぐにまた気を失ったのだという。
 ルーピン先生は、皆を落ち着かせるとチョコレートを配り始めたらしい。曰く、吸魂鬼の負の影響に対する特効薬であるとかなんとか。それから先生は他のコンパートメントも見回らなければならないのでと、早々と出ていったそうだ。名前に何か異変が起きたら、すぐに知らせるようにと言い残して。ついでに、マルフォイ達はその後に自分達のコンパートメントに戻っていったらしい。
 名前はハンナ達やクラッブ達に、特に怪我は無かったと聞いて、心底安心した。まだ体中の血の気は失せていたが、それだけで十分だ。
「僕は――」ホグワーツ特急が止まり始めた時、アーニーがぽつりと言った。
「――僕は怖かった。まるで、もう、幸せな気分になれないんじゃないかって思った」
 車体がぐらっと一揺れし、それからホグワーツ特急は完全に停止した。彼の小さな呟きは、騒音に飲み込まれることなく名前達の耳に届いた。

 ホグワーツ特急が無事にホグズミード駅に止まった後も、いつものように馬無し馬車に乗り込んだ後も、名前の気は晴れなかった。自分の体が依然として震えている気がしたし、あの瘡蓋だらけの手が脳裏を掠めるだけで、吐きそうだった。
 豪雨に降られながら、馬無しの馬車はホグワーツ城を目指した。
 名前にとって馬無しでないその馬車は、いつもと変わらずに真っ直ぐ城へと向かった。ハグリッドの躾が良いのだろう。限られた人にしか見えないというセストラルは雨の中文句も言わず、ただひたすらに城を目指していた。そのハグリッドは、今年も「イッチ年生!」とホグズミード駅で叫んでいた。森番の彼に導かれて、一年生は湖を渡り、ホグワーツを目指すのだ。

 他のみんなが馬車の中でずっとお喋りをしていても、名前はずっと押し黙っていた。普段なら、こんな事ないのに。
 がたごとと馬車は走り続けた。門を通る時になって、名前はギョッとした。背の高い黒いフードが、門の横にぴったりと寄り添い、立っているのが見えたのだ。黒いマントからはみ出た白い手、腐敗したようなそのおぞましい手を、名前ははっきりと見てしまった。再び吐き気が戻ってきた。目を逸らす前に、その手はローブの奥に引っ込められた。まるで名前の視線に気が付いたかのようなタイミングだった。そしてそのディメンターが、顔の無い顔を名前の方へ向けた。
 吸魂鬼に目があるのかは知らないが、名前はばっちりと目が合った気がした。
 吸魂鬼の視線から逃れるように身を屈め、名前は馬車の中で縮こまった。しかし吸魂鬼がずっと自分の顔を見ているのは、不思議と解っていた。
「どうして吸魂鬼が居るのかしら」名前をちらりと見遣ってから、スーザンが呟いた。
 ディメンター、の一言で、馬車の中はしんと静まり返った。
「……吸魂鬼って、一体何なんだい?」ジャスティンが聞いた。
「アズカバンの囚人達を監視する事を義務付けられた、――生き物よ。魔法省が統制しているの。吸魂鬼は人にマイナスの影響を与えるから、とても厳しく管理されているわ。魔法省に吸魂鬼専門の部隊だってある程よ。本当なら、ホグワーツになんて居る筈がないわ。あれはアズカバンの看守なんだから」スーザンが口早に言った。
「マイナス……」
 納得したような、していないような、そんな顔でジャスティンは呟いた。
「こんな所に、居る筈がないのよ」自分に言い聞かせるかのように、スーザンは言った。


「諸君も知っておるじゃろう。ホグワーツは吸魂鬼を迎え入れた」ダンブルドアが朗々とした声で全校生徒に告げた。
 ホグワーツは少しも変わらずに名前達を迎え入れた。壮大な大理石、連なる石壁、石畳のホール。門の所にディメンターが居たなんて嘘のようだ。
 名前達上級生が真っ直ぐ向かったのは、大広間だ。制服やら教科書やらが詰まった荷物は、百人あまり存在する屋敷しもべ妖精が、それぞれの寮へ運んでくれる事になっているから心配は要らない。大広間には四つの長テーブルが置いてあり、その向こうには教職員のテーブルがある。その手前にちょこんと置いてある木の椅子は、これから始まる組み分けの儀式に使う為の椅子だった。
 ざわざわと、皆がお喋りしていたが、大きな二重扉が開いた途端、ぱたりと止んだ。
 フリットウィック先生の引率で新入生が入ってきたのだ。ホグワーツ創始者達がそれぞれに創設した、四つの寮。それを選ぶのは組み分け帽子だ。名前もちょうど二年前、ハッフルパフに選ばれた。

 不安顔で組み分けされてくる一年生に拍手を送りながら、名前は待っていた。何故今年、ホグワーツに吸魂鬼が居るのか。ダンブルドアは教えてくれる筈だ。
 ――そうじゃなきゃ、一体この恐怖は何処に向ければ良いんだ?
「……遅い」
 名前がぼそりと呟くと、隣に座っていた上級生が不思議そうに名前の方を見た。今やっと、ロミルダ・ベインの組み分けが終わったところだった。すぐ隣のグリフィンドールの机で、大きな拍手が起こっていた。

 名前は若干いらいらしながら、惰性的に、ハッフルパフ寮に選ばれた一年生達に向かって拍手していたが、暫くして、組み分けの儀式はやっとの事で終わった。呪文学を教えるちびのフリットウィック先生が、自身と同じぐらいの椅子と帽子を片付けている。そういえば、去年も一昨年も組み分け帽子を運んでいたのはマクゴナガル先生だった筈だが、一年生の名前を読み上げていたのもフリットウィック先生だった。
 ちょうどその時、向こうの扉からマクゴナガル先生が大広間に入ってくるところだった。今まで不在だったのだ。それと同時に、グリフィンドールの同級生のハーマイオニー・グレンジャーと、ハリー・ポッターが、こそこそとグリフィンドールの机に向かうのも目撃した。
「あの人達、何をやってたのかしら」
 ハリーとハーマイオニーはなるべく目立たないようにと頑張っていたようだった。しかし、大広間には何百という目があるのだ。誰にも気付かれないようにというのは無理だ。人知れず注目を集めている二人を見ながら、興味津々でハンナが言った。
「知らない」名前が言った。
「そうよね」
 ハンナは名前の返答など、最初から期待していなかったようだ。名前は彼らと仲が良いが、だからといってハリーとハーマイオニーが組み分けの儀式の時に大広間に居なかった理由など、知る筈がない。ハンナだって勿論解っていたに違いない。彼女はハーマイオニー達が席に着くまで、ずっと彼らを見詰めていた。

 ダンブルドアが椅子から立ち上がった時、大広間は波打つように静まり返った。
「ふむ……――皆、おめでとう! 新学期おめでとうじゃ。新顔の君達も、古顔の君達も、儂はこのホグワーツで出会えて本当に嬉しい」
 ダンブルドアは本当に嬉しそうに、にっこりと微笑んだ。彼はそこで一息つき、深刻な知らせだから、入学お祝いパーティの御馳走が並ぶ前に諸君に話しておこうと切り出した。
「ホグワーツ特急での捜査があったから、皆も知っておるじゃろう。我が校は吸魂鬼を迎え入れた」


「アズカバンの看守、ディメンターじゃ。彼らは魔法省の御用でホグワーツの警備についておる。吸魂鬼達はホグワーツの入り口という入り口を固めており、くれぐれもと言うておくが、誰も許可なく学校を離れるでないぞ。吸魂鬼達に口実を与えてしまうでの。彼らは、ちゃちな悪戯や変装などに引っ掛かったりはせぬ――精巧な透明マント、完璧な目くらまし術でさえ無駄じゃ」
 最後にダンブルドアが付け加えた言葉は誰に当てられたものなのか、名前には解った気がした。透明マントを持っている友達を名前は偶然にも知っていたし、目くらまし術は名前の十八番だった。
「お願いや言い訳を、彼らは聞いてくれはせぬでの」ダンブルドアはそこで一旦区切り、深刻な表情から普段のキラキラした笑顔に切り替えた。「今学期から、嬉しいことに、新任の先生を二人、お迎えする事になった」
 ダンブルドアの紹介で立ち上がったルーピン先生は、無我夢中だったさっきは全く気付かなったのだが、随分とぼろいローブを着ていた。遠目からでもよく解る程にくたびれている。しかし、名前には彼が汽車の中で吸魂鬼の捜査を切り上げさせてくれた人だとはっきり解っていた。ルーピン先生が来てくれなかったら、もっと吸魂鬼は長い時間あそこに居ただろう。なので、周りが気のない拍手をぱらぱらとしか送らなくとも、気にせずに大きく拍手した。ハンナやアーニーといった、名前と一緒にいた皆は一際大きく拍手して、ルーピン先生を迎えた。
 新任の先生の二人目は、禁じられた森の森番も務めている、ルビウス・ハグリッドだった。退職したケトルバーン先生の後任に、魔法生物飼育学の教職に就くことになったのだ。彼をよく知る生徒達は、グリフィンドールを中心に大きく拍手した。ハグリッドの目にきらりと涙が光ったのを名前は見た。


 御馳走が終わり、解散になった後、名前達は期待顔の新入生達の後ろからハッフルパフ寮に向かった。階段を降りて暫く歩いた先に、食べ物の絵が並んだ廊下がある。そこが寮への入り口だ。おしゃべりな果物達の絵を通り過ぎながら、アーニーが切り出した。
「何故ホグワーツに吸魂鬼を配置させるか、それについては説明してくれなかったな」
「ええ。でも説明しなかった事にも理由があるんだわ――そうね、解り切った事だもの」スーザンは一度言葉を切り、そして静かに言った。
「魔法省は、シリウス・ブラックをホグワーツに近づけたくないんだわ」
「……夏に脱獄したっていう、彼かい?」ジャスティンが聞いた。
「魔法族もマグルも関係なく殺す、大量無差別殺人者よ。今のイギリスの魔法使い魔女の九割は、ホグワーツの出身だもの。何かしらの手を打っておかなければならないと魔法省が思うのも、当然だわ」
 丁度、寮の入り口の絵画が開いたところだった。一年生がどきどきと談話室へ入っていくのを見ながらそう言ったスーザンの表情は、奇妙に歪んでいた。

 名前はブラックが十二年前、一度の呪文で十三人もの魔法使いと魔女を殺したという事を知っていたし、ブラックが例のあの人の腹心の部下であることも知っていた。そんな殺人鬼が、脱獄不可能とまでも言われたアズカバンを抜け出したのだ。
 ブラックがイギリスの何処に居るとも解らないのだから、ホグワーツの警備を強化しておくことだって、世の理というものなのだろう。名前は自分の名付け親が何故ハンナの家に行かせるのを渋っていたのかも解っていたし、ハンナの両親が名前達だけでダイアゴン横丁に行かせたくない理由も知っていた。
「そうだろうね」スーザンが言ったのを聞いたアーニーは、神妙に頷いた。
「僕も自分が親だったら、何の対処もしない学校に苦情を言うだろうからね」

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