吸魂鬼

「――ごめん!」
「いや……気にしないで」名前の予想に反し、答えたのはゴイルだった。
 どうやら、列車の停車の反動で後ろに倒れかけた名前を支えてくれたのは、クラッブではなく、ゴイルだったらしい。急に灯りの消えたホグワーツ特急の中で、顔を見分けるのは困難だった。見渡す限り闇に包まれている。クラッブはというと、どうやらコンパートメントの壁に頭をぶつけてしまったようで、米神の辺りを撫でさすっている。
「ありがとう。ごめんね、平気だった?」名前はもう一度尋ねた。
「平気だよ」
 ゴイルがそう言った時、「アイタッ」というアーニーの声と、大きな物体が転倒したような凄まじい音がした。推測するに、どうやらアーニー自身が倒れてしまったようだ。真っ暗な中では、何を頼りにするという事も出来なかった。しかし名前はゆっくりと、確実にしっかりと立った。
 ぱっ、と、コンパートメントの中に灯りが点いた。スーザンが杖明かりを灯していた。ゴイルに再度礼を言ってから、名前は自分も杖を取り出そうとして、杖がコンパートメント内に放置してある事を思い出した。さっきフレッド達と爆発スナップをして遊んでいた時も、自分の杖を忘れた事で苦労したのだ。
 アーニーがそろそろと立ち上がるのを見届けてから、名前は慎重にコンパートメントに入り、杖の在り処を探った。皆でふざけ合っていたから、そこら辺に放置してある筈だ……。ハシバミの杖はすぐに見つかった。スーザンに倣って杖明かりを点けると、横でハンナ達が、後ろでマルフォイが、同じ事をしているのが解った。
 まだ列車の明かりは消えたままだったが、少なくとも誰がどこに居るか、何をしているかは解るようになった。僅かに明るくなったコンパートメントの中で、名前達五人は顔を見合わせた。
「何だっていうんだ?」アーニーが言った。
「解らないわ」ハンナが答えた。頼りない杖明かりに照らされた顔は不安げだ。
「まだ駅に着く時間じゃない筈よ」スーザンは冷静だ。「もしかしたら、ホグワーツ特急が故障したのかもしれないわね。私、何があったのか運転士に聞いてくるわ」
 立ち上がりかけたスーザンを、ジャスティンが止めた。「ちょっと待って」
 ジャスティンは一人窓の外を見ていた。外は相変わらずの土砂降りで、冷気が隙間から入ってきたのだろう、肌寒いほどだった。いや、本当にこれは雨のせいなのか?
「何か、乗り込んでくるみたいだ」
 杖先を押し付け、できるだけ遠くまで見ようとしていたジャスティンが、結露した窓ガラスを拭いながらそう言った。


「――乗り込んでくる?」
 唐突に、クラッブとゴイルと、三人だけで話をしていたマルフォイが口を挟んだ。
「乗り込んでくるだって? 適当なことを言うな、フィンチ−フレッチリー」
 ジャスティンはムッとしたようだったが何も言わなかった。言い争う気にはならなかったようで、彼は窓の外を見詰め続けた。確かに大雨だったし空は分厚い雨雲で覆われていたが、まだ完全に日は沈んでいないようで、何も見えないという程ではなかった。窓側に居たスーザンも、ジャスティンの隣に立って目を凝らした。
「何が乗り込んで来るの?」名前が聞いた。
「黒くてよく解らないんだ」
 ぎりぎりまでガラスに近付いているせいで、彼の声は押し潰れていた。
「黒くて?」ハンナが聞き返した。「黒くて解らないの? 一体、何が乗ってくるっていうの? こんな事、今までに無かったわ。ホグワーツ特急に乗れるのは、キングズ・クロスかホグズミード駅だけの筈よ」

 遠くから、錆び付いた金属音が聞こえた気がした。まるで、ホグワーツ特急の出入り口の扉が、無理やり開かれたかのような鈍い音だ。
 名前には一体全体、誰がこの列車に乗り込んでくるというのか、予想もつかなかった。ただ一つ解るのは、何か不測の事態が起こったのかもしれないという事だ。マグルの汽車ならともかく、このホグワーツ特急が意味もなく停車するなど有り得ない。ずっと灯りが戻らないのもおかしすぎる。それに、歴とした理由があって止まったのなら、車内アナウンスで知らせてくれても良い筈だ。
「三人とも、コンパートメントの中に入っていた方が良いと思う」名前が言った。
 誰に向けての言葉なのかに気付いて、アーニーはぎょっとしたようだった。しかし彼がどれだけ嫌がろうと、寮同士のいがみ合いをしている場合ではないように思えたのだ。肌で感じる冷気はますます強くなっていた。ハッフルパフ生達が驚いているのに全く頓着せず、名前は再び促した。
「嫌な予感がするの。――三人とも、お願いよ」
 いつになく真剣な名前を不思議に思ったのか、それとも既に充満していたその気配を感じていたのか、三人は黙って名前達のコンパートメントの中に入った。名前が彼らの前に立ってしっかりと扉を閉めようとした時、おぞましい物がそれを遮った。


 マグルが劇に使う、作り物の小道具のようじゃないか? 名前はそう思った。まるで現実味がなかった。しかし『それ』は滑らかに動き、コンパートメントの扉を開かせた。
 まるで――まるで手じゃないみたいだ。出来の悪い手袋か何かみたいだ。
 腐乱死体のような腕だった。ゾッとする程白い腕だ。そしてその腕から上から先は全て黒いフードで覆われていて、全身真っ黒だった。顔が有る筈の部分には何も見えず、ただ闇が広がっていた。
 ――吸魂鬼。本の口絵でしか見たことのなかったアズカバンの看守が、今名前の目の前に居た。本能的に杖を向けたが、何をしたら良いのか解らない。むしろ、得体のしれない何かとの距離を作りたくて思わず右手を前に出したという方が正しかった。名前は――名前は、堪えられなかった。
 名前が思わず後ろに下がろうとした時、自分の背後で誰かが息を呑む音が聞こえた――下がれない――下がるわけにはいかない。

 目の前にそびえ立つ吸魂鬼は、辺りの空気からそれ以外の何かを吸い込もうとするかのように、長く息を吸った。一瞬、まるでこの世界から幸福という幸福が消滅してしまったかのような、そんな言い様のない感覚に襲われた。名前の脳裏には、六年前の光景が浮かんでいた。
 末期の息遣いのような、ザーザーという不快な音を聞いた時、名前はやっと、自分が何をしなければならないかに気が付いた。杖は掲げたままだ。名前は真っ先に思い付いた呪文を叫んでいだ。
「――エクスペリアームス!」
 吸魂鬼は、吹き飛んだ。大きな物体が向こう側の壁に叩きつけられた音が聞こえたその時には、名前はすでに再び杖を振っていた。
「コロポータス!」
 開け放たれていたコンパートメントの扉が、ぐちゃっという耳障りな音と共に接着された。何事もなかったかのようにゆらりと起き上がった吸魂鬼は、再び扉を開けようとしていた。しかし、暫くして不意に、まるで興味を失ったかのように唐突に立ち去った。名前は吸魂鬼が消えた後に、何やら銀色の光を見たような気がした。
 気が遠のいていくのを感じながら、背後にクラッブの気配を感じながら、名前は意識を手放した。




「――……失せろ!」
 名前の目の前で、今まさにコンパートメントに入ろうとしていたその人物は、突然起き上がって叫んだ名前に、そしてその大声に、度肝を抜かれたようだった。みんなの視線を感じながら、自分が肩で息をしているのを理解しながら、それでも名前は杖先をその男から離さなかった。バーンとコンパートメントの扉が開かれた時、名前は反射的に杖を構えていたのだ。
 一瞬の空白だった。
 クラッブの体が、名前の目と鼻の先にあった。いつの間にか、列車内の照明は回復していた。黒いフードの、おぞましい姿は既に影も形もなく消えている。魔法で溶接された扉をこじ開けたのは、一人の魔法使いだった。

 一瞬だけ体を硬直させていた男は、ゆっくりと両手を上に上げてみせた。
 見覚えのない男だった。そもそもこのホグワーツ特急で、カートを押す魔女以外の大人を見る事自体、名前は初めてだった。
「私は、リーマス・ルーピン。ホグワーツの闇の魔術に対する防衛術の新しい教師としてここに来た。大丈夫、安心しなさい。吸魂鬼はもう居ない。私は君の友達に危害を加える事はしない――大丈夫だ」
 男が言い終わったその瞬間に、名前は再び意識を手放していた。


 名前が二度目に目を覚ましたとき、一番に目に付いたのは眩しい照明の光だった。
 眩さに目を眩ませながら、名前は自分がまだ走っているホグワーツ特急に乗っていて、自分がひどく寒さを感じているという事に気が付いた。思わず身を震わせると、頭のすぐ上から声が降ってきた。
「名前! 目を覚ましたのね!」
 ハンナだった。ハンナの顔は奇妙に歪んでいた。
 何故自分が意識を取り戻してからも暫くの間夢見心地だったのか。名前にはその理由が解った。コンパートメントの中が、恐ろしいまでにしんと静まり返っていたからだ。ガタゴトと揺れるホグワーツ特急の音以外、物音一つしない。どの静寂を唯一乱すのは、寝ているらしいデメテルがたまにする、大きな鼾だった。――まるで葬式みたいだ、と名前はぼんやり考えた。
 名前は、ゆっくりと起きあがった。頭上からハンナの声がしたのは、名前が彼女の膝の上に頭を乗せて眠っていたからだ。前を見ると、スーザンとアーニーとジャスティンが、皆同じような顔で名前の方を見ていた。心配しているようでもあり、どう接したらいいか解らないと言っているようでもあった。
「……ここ葬式場?」
 名前がそう言うと、まずアーニーとジャスティンが顔を見合わせた。
「――馬鹿言わないで」スーザンが静かに言った。
 だって、入学お祝いパーティじゃあないじゃない? 御馳走が無いんだもの――名前はそう言おうとしたのに、言えなかった。
 名前に抱き付いたハンナは、ぐすぐすと鼻を鳴らしていた。
「わた、わたし、名前がもう目を覚まさないんじゃないかって、おも、思っちゃったわ! 名前――名前が倒れ、倒れちゃって、何回揺すっても、お、起きなかったんだもの! それ、それなのに、――そ、葬式だなんて!」

 抱き締めてくるハンナのその嗚咽混じりの声を聞きながら、名前は小さくごめんと呟いた。彼女の目からぼろぼろとこぼれ落ちた涙は、とても暖かかった。

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