秘密の部屋へ

 ハリー達と夜中に禁じられた森に入った次の日から、『嘆きのマートル』の居る三階の女子トイレに入り浸る事が、不本意ながらも名前の日課になってしまった。マートルの居るトイレは誰も近付かないので、じっくりと考え事をするにはピッタリの場所だった。人が使用しないとはいえトイレはトイレだ。快適とはとてもではないが言えない。しかし誰にも邪魔されないという利点は、あまりにも大きい。
 名前が三階の女子トイレへ行くのは、ある時は皆がまだ起き出していないような朝早い時間であったり、昼食の時間の合間にであったり、就寝時間ぎりぎりの時間であったりした。目眩まし術を完璧にマスターしてしまった名前にとって、誰にも見つからずに寮を抜け出すというのは朝飯前だった。
 たまに名前が何処へ行っていたのかと、心配性のハンナやセドリックが聞いてきたりもしたが、「医務室に行っていた」とか、「図書室の本の返却期限が今日までだった」とか言うだけで、簡単に誤魔化すことができた。少しばかり良心が痛んだが、気の良い友人達は名前の言うことを信じてくれた。
 名前は授業と授業の合間にもマートルの居るトイレを調べたかったけれど、教師の引率が続いているせいでそれは叶わなかった。

 マートルから聞いた、彼女の死んだ時の話はこうだ。
 オリーブ・ホーンビーという子がマートルの眼鏡云々をからかったので、マートルは一人小部屋で泣いていた事。暫く泣いている内に、不意に誰かがこの女子トイレに入ってきたという事。それは『男子』生徒で、マートルがそれを咎めようとして小部屋から外に出ると、死んだという事。何故死んだのかは解らず、ただ黄色の目玉が二つ見えたという事。

「あんたも物好きよねえ。わたしは嬉しいけど。ほらほら、もう一限目の授業が始まるわよ」
 マートルが名前に声を掛けた。仕方なしに名前は立ち上がり、もう一度だけじめじめしたトイレを見回し、一時間目の変身術の授業へと向かった。


 名前がマートルの所へ通い出したのは、何も此処が考え事に最適だと思ったからだけではなかった。
 アラゴグから聞いた、トイレで死んだ女の子。それは嘆きのマートル、彼女の事ではないだろうか? 名前は直感とも言えるそれを信頼し、森へ行った次の日にマートルに尋ねていた。しかし彼女自身も自分がどうし死んだのか解らなかった。
 彼女は一体何故あそこで死んだのか? 彼女は一体どうして死んだのか?

 マートルが話してくれた、黄色い目玉。アラゴグ達のような大蜘蛛、アクロマンチュラでさえ嫌がるぐらいのスリザリンの怪物。
 そもそもスリザリンの怪物とはなんだ? アラゴグ達が名前を呼びたくないぐらい、嫌な生き物とは?
「名を呼ばないのは、単にそれを怖いと思うからなのだ」と昔に父親が話してくれた気がする。そうして呼ばないからこそ、恐怖が更に増加するのだ、とも。
 名前を言ってはいけないあの人。名前を言ってはいけないのは、単にあの人が怖いからだけではない。再び恐怖に苛まれる事を怖れているからだ。アラゴグ達、蜘蛛が怖がる生き物。

 そう考えた時、名前の頭には細かい字で書かれた古くて酷くくたびれた、一冊の本が浮かんだ。確か赤い革張りの表紙で、金色の装飾がされていた。挿絵やモノクロの写真付きが随所に挿入されていて、何より解説がとても解りやすい。見せてもらった初版本には、事前に聞いていた通り誤字もいくつかあったし、今では虚実とわかっていることがまるで事実であるかのように書かれている箇所もあった。
 マルフォイに借りた「幻の動物とその生息地」にはこう書かれていた。

 ――蜘蛛が逃げ出すのはバジリスクが来る前触れである。なぜならバジリスクは蜘蛛の宿命の天敵だからである。―― 



 ジニー・ウィーズリーがスリザリンの継承者に連れ去られた。
 ハリー達と共に森へ行った日から数日後、授業がもうすぐ終わるという時に、その声は突然聞こえてきた。マクゴナガル先生の魔法で拡大された声だ。それにより、全ての授業が中断された。講義の中止を喜ぶ者も居るには居たが、少数だった。皆不安に駆られていた。呪文学のフリットウィック先生がハッフルパフ寮まで引率してくれた後、混雑した談話室の中で――みんな、名前と同じ事を考えたのだ――ハンナと共に、寮監であるスプラウト先生が何かを伝えてくれるのを待った。血の気の失せた顔をしてハッフルパフの談話室へとやってきた彼女が告げたのはこうだ。
「一年生のミス・ウィーズリーが、秘密の部屋に連れ去られました」

 ジニー・ウィーズリーは一つ下の女の子で、グリフィンドールで、ロン・ウィーズリーやフレッド、ジョージの妹で、ハリー・ポッターに恋をしていて、いつでもちょっとだけ疲れているようで、変身術がちょっと苦手で、笑うとすっごく可愛い。
 名前からはそんな印象しかなかったけれど、もし自分が彼女との勉強の合間にでも、それとなく相談に乗ってあげたりしていたら、もしかしてこの状況は変わっていたのだろうか。名前の顔が苦虫を噛み潰したかのようになった。

 名前の推測通り、スリザリンの怪物がもしも本当にバジリスクだったとしたら、秘密の部屋に連れ去られたジニーは無事で生きているのだろうか。バジリスクの瞳は見るもの全てを死に至らしめるという。恐らく、スリザリンの怪物なるバジリスクは、マートルを睨み殺したのだ。バジリスクの目は一目見ただけで死に至らしめることができる。
 談話室はとても混雑していたし、みんな一種のパニック状態に陥っていたから、抜け出すのは至極簡単だった。ここ数日間で何度目かであろう、やってきたマートルの居る三階の女子トイレで、名前は再びぐるぐると歩き回っていた。
 しかし、バジリスクは巨大な蛇なのだ。いったいどうやって、何人も襲ってみせたのか。いったい秘密の部屋は何処にあるのか。そもそもスリザリンの継承者とは誰なのか。名前は最後の手掛かりとばかりに、数日間の殆どをマートルと共に過ごしたのだが、結局有益な情報というのは得られていなかった。
 名前は、自分がこうやってジニーの為に動いているということが信じられなかった。自分は事勿れ主義だったと思っていた。あの時、スプラウト先生が明日にもホグワーツが閉鎖されるだろうと言った事も、ジニーと同じ一年生の女の子達がわんわんと泣き出した事も、名前を動かした要因の一つなのだろうか? それとも、何か別の理由なのだろうか? 名前は自分でも解らなかったが、居ても立っても居られなかった。

 名前は「誰が」、「何処から」、「どうやって」、とずっと考えていたので、女子トイレの新たな訪問者の事に、彼らが中に入って来るまで気が付かなかった。名付け親がいつも言っている『気を抜くべからず』の信念は、名前の中から消え去ってしまったのだろうか? 名前は三人分の足音にも気が付かなかった。
 ハリー、ロン、そして何故かロックハート先生が女子トイレの中に入ってきた。名前に付き添っていたマートルは「まあ!」と叫び、急いでハリー達の方へと詰め寄った。名前も彼女の後を追って、ハリー達の方へと歩いた。ハリーもロンも、最初からそこにいた名前にひどく驚いたようだった。
「あんた達、また来たわけ? 男子トイレってそんなに使い勝手が悪いのかしら?」
「そうじゃないんだよマートル。僕ら、君が死んだときの事を聞きに来たんだ」

 マートルが嬉々としてハリー達に教えた事は、名前が数日前に彼女から聞いた話と寸分違わなかったが、彼女が語った事によって彼らは答えという名の真実に辿り着いたようだった。納得したようなそうでないような二人の同級生と、全くもって意味がわからないわかりたくもないという闇の魔術に対する防衛術の教師というのは、何ともおかしな図だった。
 ハリーはマートルが目玉を見たという場所を指で指し示した後、すぐにその場所、手洗い台の前に向かった。名前とロンもそれに倣い――ロックハート先生はずっと後ろの方で見ているだけだったけれど――、ハリーと同じように手洗い台の周りを調べ始めた。
「ね、君は何で此処にいたんだ?」鏡に入ったヒビを入念に見ながら、ロンが名前に聞いた。
「うん――……アラゴグが、トイレで女の子が死んだって教えてくれたでしょ? あれって嘆きのマートルの事じゃないかって思って」
「そっか。ウン、僕らもそう思った」ロンの注意は、鏡から下の蛇口へと移ったらしかった。
「ねえ……一体あたし達、何を探してるの?」
 今度は、名前がロンに聞いた。ハリーは丁度、手洗い台の裏側に回り込むようにぐるぐると見回していた。
「何って……入り口だよ名前。秘密の部屋への入り口さ」
「はあ?」
 名前が間抜けに聞き返した事で、ロンは気を悪くしたようだった。
「いいか? 此処でマートルは死んだんだよ。だからここら辺に、秘密の部屋への入り口があるんだ」
「ま、待ってよ。じゃあどうやって、こんな所からジャスティンやハーマイオニーを襲ったの? マートルはここに居たらしいから解るけど、ハーマイオニーもジャスティンも、ここに居たわけじゃないでしょ? 二人ともここじゃない、別々の場所だった」
「スリザリンの怪物はバジリスクっていうんだ」ロンが名前を振り向いた。「ハーマイオニーが教えてくれた。でっかい蛇だよ。バジリスクは、ホグワーツの配管を使って、あっちこっちに行ってたんだ」

 マートルがハリーに「その蛇口、壊れっぱなしよ」と言ったのが聞こえたので、名前は「どうして石になっているハーマイオニーが、バジリスクの事を教えてくれたの?」とロンに聞く事ができなかった。ハリーは手洗い台の蛇口を捻ろうとしていた。「これにだけ蛇の模様が付いてる」そう言ったハリーがどれだけ捻っても、マートルの言った通り蛇口は完全に壊れているようで、いくら待っても水が出てくることはなかった。
「ハリー、何か言ってみろよ。何かを蛇語で」
 ロンがハリーを見ながら言った。ハリーが驚いたようにロンを振り返った。名前にちらりと視線を寄越し、そして再びロンの方を向いた。
「でも――」
「いいじゃない、ハリー。もしかしたら秘密の部屋の扉が開くかも」
「開け」ハリーが言った一言目は、普通の言葉だったが、二度目は違っていた。空気の擦れるようなシューシューという音、名前やロンには理解出来ない言語――ハリーは蛇語を話していた。
「――開け」

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