蜘蛛の長の話

 名前達の最悪の予想に反し、森から出てきたのはウィーズリー家のフォード・アングリアだった。トルコ色のボディカラーに、折れ曲がったサイドミラー。所々にトルコ色の塗料が剥げ落ちて泥が付いており、方々から飛び出している木の枝によって出来たと思われる、引っ掻いたような傷痕が至る所についていた。名前はマグルの車は何度か目にした事はあったが、野生化した車などというのは初めて見た。それに、運転手の居ない車もだ。
 ロンが言うには、これに乗って今学期、ホグワーツへとやってきたらしい。透明ブースターとかいう、元の車には無い仕掛けも施してあるらしく、名前はロンの父親の、まだ会った事もないウィーズリー氏の事を思い言葉を無くした。名前の記憶が確かならば、マグル製品に魔法の仕掛けを施すのは魔法法違反の筈なのだが。

 しかし、問題だったのは野生化したマグルの車などではなかった。
 自分達を持ち上げているのが、ケンタウルスならばまだ良かったのに、と名前は思わずにはいられなかった。今聞こえているのは蹄が土を蹴る音ではなく、カサカサという軽い足音と、カシャカシャという金属を擦り合わせるような音だった。
 子牛ぐらいある大蜘蛛に宙吊りにされたまま、名前は考えた。ケンタウルスは人間に腹を立てる事はあっても、名前達ぐらいの『子供』を、決して傷付けたりはしないからだ。この大蜘蛛達が名前達を友達の誕生日パーティに招待しようとしている訳ではないことだけは確かだった。視界に入る、ロンをぶら下げている蜘蛛のカシャカシャ鳴る大鋏を見るに、名前の足ぐらい簡単に切断出来そうだ。
 名前は蜘蛛が嫌いではない。このアクロマンチュラ達だってそうだ。嫌いではないどころか、むしろ大好きだ。アクロマンチュラの黒くて大きなビー玉のような八つの目、毛がびっしりと生えている逞しい胴体、八本の太い足。どれを取ってもチャーミングだ。
 しかし宙吊り状態で楽しむ事は出来なかった。鋏の鳴る音に混じって聞こえてくる蜘蛛達の囁き声は、「久々の生肉だ」「まだ幼く美味かろう」「ああ愉しみだ」といった、『食事』を楽しみにしている声だ。『食材』は名前達だ。
 名前は確かに「言葉の通じない生き物と対峙しても何とかできる自信がある」と言ったが、これは無理だ。お手上げだ。何せ、別の意味で言葉が通じないのだから。そもそもアクロマンチュラは人語を理解する。言葉は通じるのに理解し合えないなんて。


 ドサッと、大きな窪地のような場所に三人が落とされた時、名前の頭の中は「どうしよう!」でいっぱいだった。以前フィレンツェが、森に入る時は十分に用心するように、と言っていた理由がはっきり解った。彼らから逃がれる事はできないのだ。大勢の蜘蛛達に囲まれながら、名前は頭を巡らせた。
 もしも自分の父親がアクロマンチュラの群れに囲まれたとしたら、一体どうするだろう? 答えは勿論、『姿くらましする』だ。いくら優秀な闇祓いだった父だって、これだけのアクロマンチュラを前にして戦うなど、命を溝に捨てるようなものだ。しかし名前は姿くらましなんてできないし、元よりホグワーツでは姿現しも姿くらましもすることはできない。たかだか魔法を扱うようになって二年目の名前達が、大量の大蜘蛛に立ち向かえるわけがない。
 考えれば考えるだけ堂々巡りになってきて、名前は本当に血の気が抜けてきた。もっとも、ロンは最初から血の気が抜けているようだったけど。ファングは既に怯えの鳴き声さえ出せなくなっていたし、ハリーは杖をぎゅっと握りしめるだけで何も言わなかった。
 仲間の蜘蛛に「アラゴグ」と呼ばれた、年老いた蜘蛛が声を発した。
「何の用だ?」寝起きらしいアラゴグが、呼びかけた仲間の蜘蛛に機嫌の悪そうな声で尋ねた。

 アラゴグは語った。彼の親しき友人の、ハグリッドの名誉の為に。
 五十年程前に怪物が生徒を襲った騒ぎがあったのは確かだが、自分はその騒ぎの『怪物』ではないし、ハグリッドが襲わせた訳ではないという事。証拠に自分は卵の時からハグリッドに育てられたのであり、ハグリッドは罪を着せられながらも、アラゴグを禁じられた森に逃がしてくれたという事。騒ぎで死んだ女の子は、トイレで発見されたらしいという事。継承者騒ぎの怪物は別にいて、自分達蜘蛛はそれを怖れて口にも出さず、ハグリッドですらそれが何かを知らないという事。

「――それじゃ、僕たちは帰ります」
 アラゴグが語り終えたのを見てから、三人と一匹を代表したハリーが声を捻り出した。
「帰る?」アラゴグの声は、まるで笑っているかのようだった。
 盲いた瞳からはアラゴグの気持ちは読み取れなかった。
「それはなるまい……わしの命令で、娘や息子たちはハグリッドを傷付けはしない。しかし、わしらの真っ直中に進んでノコノコ迷い込んできた新鮮な肉を、おあずけにはできまい」
 アラゴグの言っている意味を理解してしまった三人は、今まで以上に身を凍らせた。辺りは既に、蜘蛛達の鋏のガチャガチャ鳴る音で覆い尽くされていた。開けた場所で、上からは月明かりが見えていたのに、毛むくじゃらの蜘蛛達のおかげで辺りは真っ黒だった。
「さらば、ハグリッドの友人よ」
 アラゴグがそう言ったのを合図に、一斉に蜘蛛達が蠢きだした。


 ハグリッドのかぼちゃ畑でゲーゲーやっているロンの背中をさすりながら、名前は明日言わねばならないのフォローの台詞を考えた。もし仮にハンナが、名前が医務室で一日入院していた、という真っ赤な嘘を信じてくれたとしても、あちらこちら泥が付き枝が絡まりドロドロになってしまったローブや、名前の体中にできてしまった生傷によって、嘘を完璧に貫き通すことは難しいだろう。医務室から退院した後にピーブズに遭遇して、今の今まで去年立ち入り禁止だった三階の廊下に閉じ込められていた、とでも言ったら、ハンナ達は納得してくれるだろうか。
 そこまで考えて、何にしろハンナに今以上に嘘をつかねばならないのだろうという事実が嫌になった。

 全部吐き終えたらしいロンに、名前はハグリッドの小屋からコップを借りて、それに水を注いだ。薄暗い小屋を見回すと、ファングが未だに大きな体を震わせていた。無理矢理真っ暗な禁じられた森を探索するのに付き合わせてしまったのだし、巨大蜘蛛に襲われ、おまけに馬鹿みたいに車にぎゅうぎゅうと押し込んだのだから、無理もなかった。
 フォード・アングリアが助けに来てくれなかったら、今頃どうなっていただろう?
 名前は震えているファングを一撫でしてから外に出て、水の入ったコップをロンに渡した。
「ありがと」
 ゆっくりと、ロンの喉は水を通していた。名前とハリーは彼が落ち着けるまで黙って待っていた。

「蜘蛛の跡をつけろだって」
 校庭を歩く途中で、血の気のない顔のままのロンが、心底嫌そうな声でそう言った。三人はハグリッドの小屋を離れ、城へ向かっているところだった。
「ハグリッドを許さないぞ。僕たち、生きてるのが不思議だよ」
「でも、蜘蛛の跡をつけたおかげで、ハグリッドが生徒を襲わせたんじゃないって解ったんじゃない? 違う?」
 名前がそう言うと、ロンは小さく頭を振った。
「そりゃそうさ。でも僕らは喰われるところだったぜ」
「アクロマンチュラが食べる為に他の生き物を襲うのは当然だもん。それに、ハグリッドがわざと襲わせた訳じゃない、そうでしょ?」
「君、あの蜘蛛を庇うのやめろよな」
 ぎゅっと顔を顰めながら、ロンが言った。「それに、もしわざとだったらハグリッドはホントにアズカバンにいなきゃならないよ」
「でも、ハグリッドが『秘密の部屋』を開けた犯人じゃないって解ったよ。ハグリッドは無実だった。それが解っただけで、僕らが死にそうになった価値はあったよ」
 ハリーはそう言ったが、心の底からそう思えているわけではないようだった。

「さっさと帰ろう。……名前、ハッフルパフの寮まで送るよ」
 三人が三人なりに『いつも通り』ではなく、義務的に言葉を発したハリーに、名前は頷いた。さっさと目くらまし術を掛けようと杖を取り出そうとした名前の耳に、大きな布を翻すような音が届いた。音のした方を見ると、ハリーの一部分が透明になっている。
「これを被って。三人ならギリギリ入れるから」
「クリスマスの時は聞けなかったけど、それ、透明マント?」
「そうだよ。これで送ってくよ。付き合わせたのは僕たちだから」
 ハリーは未だ青い顔をしながらも、名前にぎこちなく微笑んでみせた。
「ううん。ごめんね、あたし付いて来たのに何にもできなくて」
「いいんだ。付き合わせたのは僕だよ。名前が居てくれただけで、僕は冷静でいられたよ」

 名前達は透明マントをすっぽり被ると、再び城への道を歩き出した。

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