英雄とのファーストコンタクト

 薬草学の授業が前日の大吹雪で休講になったその日、ハリー・ポッターは図書館の本棚の影で、人知れず腹を立てていた。自分はただ、ジャスティンに襲いかかった蛇を止めてやっただけだ。それなのに、この仕打ちはあんまりだと思ったのだ。ハッフルパフ生達は額を寄せ合い、ひそひそと話していた――ハリーがスリザリンの継承者だと。
「じゃあアーニー、あなた、絶対にポッターがそうだって思ってるの?」
「ハンナ、彼はパーセルマウスだ。あれは闇の魔法使いの印だよ。なあ名前、君もそう思うだろ?」
 太った男の子、アーニーがそう言うと、ハッフルパフ生達の視線が一人の女の子へと集中した。
 視線の先にいた女の子は、ただ一人今までの会話に参加していなかった。しかしどうやら丁度読んでいた本を読み終えたらしく、ぱたんと本を閉じ、そしてゆっくりと彼の方を向いた。

 名前と呼ばれた女の子は長くつやつやした髪をしていて、その髪は飾り気のない黒い紐で一つに括られていた。パーバティやラベンダーは決してしないだろうという結わえ方だ。丸いくりくりとした目をしていて、右耳にはきらりと光る金色のリングをつけている。ハリーは、彼女を何度か見たことがあったような気がした。しかし思い出せない。
「あたしは蛇の言葉なんて解んないから、何とも言えやしないわ」
 彼女は無言で本を読んでいたが、パーセルタングについて話していた事は聞いていたらしく、ただそう言った。ハリーは彼女の声が、さもそんな事どうでも良いという調子だった事と、思ったよりぞんざいな物言いをする事に驚いた。それに、随分と捻くれた答え方だった。
「そうじゃなくて。ポッターはパーセルマウスなんだから、闇の魔法使いで、スリザリンの継承者なんだろうって話さ」アーニーは話が通じなかったと思ったらしく、そう付け足した。
 ハリーからは名前の表情までははっきりと見えなかった。ただ、至極普通の事を喋っているような、困った風でも嫌そうな風でもなかったのは確かだ。そして、話し声は聞き取る事ができた。彼女の声は、不思議とハリーの耳に届いた。
「ポッター? グリフィンドールの? あたし、ハーマイオニーとは友達だけど、ポッターの事は知らないもの。何とも言えやしないわ」
 ハリーは自分を知らないと言った、何処かで見た覚えのあるハッフルパフの女の子が、ハーマイオニーとよく一緒にいる名前・名字だと解った。自分と本について語り合える友達は、名前ぐらいしかいないのだ、とハーマイオニーが言っていた事を思い出した。そう考えてみると、彼女に見覚えがある筈だ。
 自分の言い分をひどく軽い調子で否定されたアーニーが、ムッとしたのがハリーには解った。
「だとしても、ポッターがジャスティンを襲わせたのは事実じゃないか」
「事実じゃないと証明できないけど、事実だとも証明できないんじゃないかな」アーニーはぐっと詰まった。
 名前がゆっくりと立ち上がった。「これ、返してくるわ」と彼女は言い残し、読んでいたらしい数冊の本を手に取って去っていった。ハッフルパフ生達はそれぞれ顔を見合わせたが、やがて「ポッター=スリザリンの継承者説」についての論議を再開させた。


 ハリーはかっかとしながら図書館を後にした。ジャスティンを蛇に襲わせたと思い込んでいるハッフルパフ生達には、何を言っても効かないらしかった。『僕』が『スリザリンの継承者』で、『ジャスティン』を『襲わせた』らしい。一体、決闘クラブのあれのどこをどう見てそんな事が言えるんだろう?
 君ったら、まるでヘビを唆してるような感じだった――昨日のロンが言った言葉が頭に浮かんだが、ハリーはそれを即座に打ち払った。そんな事ある筈ないじゃないか……。ハリーは歴としたグリフィンドール生だ。しかし組み分け帽子の言葉もハリーは覚えている。
 ふと顔を上げたハリーは、前を歩いている生徒が先程のハッフルパフの女の子、名前・名字だとわかった。アーニー達の所には戻らなかったらしい。

 気付けば、ハリーは名前に声を掛けていた。
「君は、僕がスリザリンの継承者だとは思ってないの?」
 突然だったにも関わらず、振り向いた名前はそれほど驚いてはいなかった。
 彼女の手の中には図書館で借りたのであろう、数冊の本があった。『トリック好きのためのおいしいトリック』、『奇妙な植物と奇妙な隣人』、『魔法の史跡』。無節操に抱えられた本を見て、ハリーには彼女とハーマイオニーが気が合うのがよくわかる気がした。
「あらあなた、スリザリンの継承者なの?」
「違う!」
 ハリーは先程の事もあって、名前にヒステリックに言い返した。彼女が自分に何かを言ったというわけではないのに。しかし彼女は驚きも嫌がりもせず、「そうなの」と答えた。
「じゃ、継承者はあなたじゃないんでしょう」
 あっさりと言い放たれた言葉に、ハリーは面食らった。
「君――君は、僕がスリザリンの継承者じゃないって思ってるの?」
「あなた今、自分で違うって言ったじゃないの」
 言ったけど、とハリーは口ごもった。
 あまりにも簡単に、自分が今一番聞きたい言葉を聞くことが出来たので、ハリーは信じられないような気持ちだった。名前は器用に足を使い、本を抱え直した。彼女の長い髪が、動きに合わせて揺れた。
「僕が嘘をついてるとは思わないの?」
「思わなかったとは言わないけど、あなた、ハーマイオニーの友達でしょう? それに、今あなた自身が自分でそう言ったんだもの。あなたを継承者じゃないかなんて、わたしが疑う理由は無いわよ」

「ちょっと!」名前がぎょっとした。
 ハリーの目から、ぼろぼろと大粒の涙が零れていたのだ。ハリーは泣いていた。恥ずかしいという思いより、どうしようという気持ちの方が強かった。しかし、ぼろぼろと流れ出る涙を止める事はどうしても出来なかった。名前は唖然として、ぱくぱくと口を動かしていたが、すぐにハリーの手を引いて歩き出した。
 歩いている途中、誰かとすれ違う事はなかった。継承者騒ぎが元になっているのか、それとも名前・名字が人の居なさそうな方を歩いてくれているのか、ハリーには解らない。ただありがたいと思ったし、彼女に手を引かれて歩くのは何だか安心した。


 空いていた教室に入り、扉を閉め、抱えていた本を机にドサッと乱暴に置いた名前は、ハリーにハンカチを差し出した。
「ありがとう」
 ハリーは飾り気のない淡いブルーのハンカチで、頬を伝っていた涙を拭った。
「どういたしまして」簡潔な返事だった。

「君は、僕がスリザリンの継承者じゃないっていうんだね?」
 ハリーは未だ震える声を押し殺しながら、名前に聞いた。名前はハリーを見つめていたが、やがて「そうね」と静かに答えた。ハリーはハンカチを返そうと差し出したが、彼女は「持ってて良いわよ」と言った。ハリーは黙って、素直にそれに従った。まだ目元が濡れていたのが解ったからだ。
 しばらく二人は黙っていたが、名前が先に口を開いた。
「落ち着いた?」
 ハリーはこくりと頷いた。
「そう。じゃ、良かったわね」泣くことは必ずしも悪いことじゃないのよ、と彼女は小さく微笑んだ。
「ハンナやアーニー達もね、別にあなたが本当にジャスティンを襲わせたと思ってる訳じゃないのよ。今はちょっと――混乱してるだけ。少し考えたら、グリフィンドールのあなたがスリザリンの継承者じゃないなんて、すぐに解るんだから」名前がハリーに言った。
「それに、ハーマイオニーの友達のあなたが誰かを傷つける筈は無いわ――彼女がマグル生まれだからっていうのではなくてね――もしそうなら、私はハーマイオニーとのお付き合いを考えないといけないもの」
 ハリーが首を傾げていると、名前は続けた。
「友達の友達は、友達なのよ。ミスター・ポッター」
 いつしか、ハリーの涙は止まっていた。
「あの……僕の事は、ハリーでいいよ」
「じゃああたしの事も、名前でいいわ」名前がにっこりと笑うのにつられて、ハリーもぎこちなく笑った。

「驚いた。じゃあアレってやっぱ、蛇語を喋ってたのね」
 話し始めて、段々と馴れ馴れしいタメ口になっていった名前に、ハリーは驚いた。ハーマイオニーと一緒に居るところを見た限りでは、大人しい女の子だと思っていたのだ。今の彼女は快活で、そしてちょっと馴れ馴れしかった。しかしそんな名前を嫌だとは思わなかった。彼女は自分を継承者じゃないと信じてくれる数少ない存在だし、何より、ハーマイオニーの友達なのだから。
「うん。やっぱり他の人には解らないんだね」
「まあね。シャーシャー言ってるのだけは聞こえたけど、アレで喋れてるんだとは思わなかったわ」
「喋れてたよ」ハリーが笑いながら言うと、名前もけたけたと笑った。
 名前は笑いが引っ込むと、神妙な顔付きになった。
「うーん……自分に出来て、人に出来ない事を解れっていうのは、なかなか難しいんだよね」
 唐突な名前の言葉に、ハリーは何が何やら解らなかった。彼女は慎重に言葉を選んでいるようだった。
「ホラ、箒だって呪文だって、すぐにできちゃう人と、できない人とがいるじゃない? アレと同じなのよね、要は。つまりね、例えば私は変身術はすぐにできちゃう人だけど、闇の魔術に対する防衛術は全然できない人なのよ。他だと……一年の時の飛行訓練の時に、あたしの箒がさっさと上がって、ハンナの箒が十回やっても上がんなかったのも同じなのよ」
 名前がハリーに「解る?」と聞きたそうな顔をしたので、ハリーは一応頷いた。
「でね、すぐにできちゃう人は全然できない人に対して、どうしてこんな簡単な事ができないんだろうって思う訳よ。逆にできない人はすぐにできちゃう人を見て、どうしてあんなに簡単にできちゃうんだろうって思うのよ。――それと同じでね、ハリー。蛇語ってのも、できる人にとっては……ハリーにとっては自然にできる事なんだけど、私達にとってみればどうしてそんな事ができるんだろう、になる訳よ。蛇の言葉なんてシャーシャーとしか聞こえない訳だしね」
 ハリーには彼女が言った事に対し、身に覚えがあった。どうして自分はできないのに、ハーマイオニーはあんなに沢山の勉強ができるのか。どうして自分は、それこそホグワーツに入学する前から、自分が魔法使いだとわかる前から蛇と会話する事ができたのに、他のみんなはそれができないのか。
「ああ……魔法使いがマグルに、どうして彼ら魔法が使えないんだろうって思うのも同じかな」
「あんまり気にしない方が良いわよ。ハリーはたまたま蛇語が喋れる、だけどスリザリンの継承者じゃあない。それだけだもの。それがちょっと、他のみんなには解り辛かっただけ。どうせみんな、その内解ることなんだから。それにホラ、あなたにはハーマイオニー達が居るでしょう? それだけで十分だと思わない?」 あたしも居るしね、と名前は微笑んだ。

「さて」と言って、名前が立ち上がった。ぱんぱんとローブに付いた埃を払う彼女を見ながら、ハリーもそれに倣った。ハリーは名前から借りた淡いブルーのハンカチを、まるで何かのお守りのようにずっと握りしめてしまっていたのを思い出した。
 綺麗に畳まれていたハンカチは、いつしかぐしゃぐしゃになっていた。
「あの、これ――」
「持ってて良いよ、ハリー。もしもの時に、泣ける場所は必要じゃない? ――ああそっか、スリザリンの継承者殿にはヘビ柄で緑のハンカチの方が似合うかもね」
 名前はにやっと笑った。ハリーはそんな様子が誰かに似ているような気がしてならなかったし、クスクスと笑い続ける彼女に、それほど嫌な気分にはならなかった。


 名前と別れた後、ハリーの心がすっきりしていたのは事実だった。
 それが思いっきり泣く事が出来たからなのか、自分はスリザリンの継承者なんかじゃないと殆ど知らない女の子が否定してくれたからなのか、それとも密かに憧れていた名前・名字と話す事ができ、そして友達になる事ができたからなのか、判断はつかなかった。しかしハリー・ポッターの心は、久々に晴れ晴れとしているのだった。

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