オレンジの誘惑

 どうも、生理的なものに関することは、流石に解っているらしい。トイレの向こう側へ消えたロクゴーを見据えながら、名前は推測した。
 卵焼きを知らなかった、テレビを知らなかった、学校を知らなかった。考えられるのは、家の中にずっと閉じ込められっぱなしで、尚且つ育児を放棄されていたのではということ。それが間違っていようとどうだろうと、名前には関係なかった。どちらにしろ、彼に対する庇護欲は既に生まれているのだ。できる限りの方法で、彼が楽しめるよう努めてやれば良い。あまりに名前の憶測が間違っていれば、ロクゴーの方から訂正が入るだろう。もっとも、その推測を口に出す気はなかったが。
 『これからのこと』を、名前はぼんやりと考える。
 まあまずは服が要るだろうなと、コートを引き摺りながら出てきたロクゴーを見てそう思った。身長は、名前の胸よりも少し低い位置に頭の天辺がくる程度。ガリガリと称するほどではないが、十人中九人が痩せていると評価を下しそうな見た目をしている。肉を付けさせることが先決かもしれない。
 再びテーブルに、つまり名前の目の前に戻ってきたロクゴーをしげしげと眺めながら、「ロクゴーお前、年いくつだ」と尋ねた。
「とし?」
「年齢だよ年齢。何歳だ?」
 昨晩路地で倒れているロクゴーを見た時は、確かに十五、六歳ほどに見えた。しかし今日の光に晒されているこいつはもっと幼く見える。小学生にこれくらい発育が良いのが居てもおかしくないし、下手をすると十歳程度かもしれない。ただ、顔付きがまったく幼いというわけではないので、中学生程度だとは思うのだが。
 彼を幼く見せるのは、その表情だ。
「年、年は……」
「それも解らねえか」
 ロクゴーは頷く。その様が、妙に悲しげに見えてどきりとした。この少年は何も悪いことをしていないのだろうから、そうやって気に病む必要は一つとしてないのに。
「まあ中学生くらいだろう。でもお前ひょろっちいし、急に背の伸び出した小学生に見えなくもない。良かったな、映画、子供料金で観られるぜ」
「えいがって何だ?」
 名前は頭を抱えた。

 迷ったのだが、結局、ロクゴーを連れて買い物に行くことに決まった。最初は置いていくつもりだったのだが、あまりにも彼が一緒に居て欲しいと食い下がるので、名前は根負けしてしまったのだ。
 そう、最初は置いていくつもりだった。
 名前はロクゴーのことを少しも疑っていない。ロクゴーが嘘をついていて、自分を良いように利用しようと思っている、などと考えたりはしなかったのだ。むしろ、そんな考えに至りもしなかったと言って良い。ロクゴーが嘘をついているとは思わなかったし、彼の言動も作り物だとは思えなかった。
 仮にロクゴーの経歴が全て嘘で、名前から色々と奪おうとしているのだとしても、それならそれで良い。この家に盗られて困る物など何一つ置いていないし、そもそも面倒を見てやろうと思っているのだから、多少の不利益は覚悟しているのだ。
「まあ、テレビは勘弁して欲しいかな」
「名前さん?」
 奮発して型も大きめに買ったそれは、名前の家の中で一番高価な物かもしれなかった。

 ロクゴーの言葉が全て嘘ならば、虐待されていた可哀想な少年など、居なかったということになるではないか。

「何でもねえ。靴……も、無かったんだったな。ぶかぶかだろうが俺の靴で勘弁してくれよ」
 靴箱からなるべく綺麗なスニーカーを取り出し、ロクゴーの前に並べる。彼はすぐにそれに足を入れ、「ぶかぶかだ」と笑いながら言った。嬉々として、ぶかぶかの靴を履いた足を持ち上げたり、足踏みしたりしている。
「靴屋が先かもしれねえな」名前が小さく呟いた。

[ 291/832 ]

[*prev] [next#]
[モドル]
[しおりを挟む]



×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -