男の家へと向かう間、名前は何も考えていなかった。ただ、一刻も早くこの気持ちの悪い状態から逃げ出したかった。そして、ヒーローが怖かった。言うことを聞かなければ、殺されるのではないか――そう思った。ただ、無免ライダーと名乗った人間の声が同情心に満ちている気がしたのは事実だった。そうでなければ、名前は是非もなく逃げ出していただろう。
 再び用水路へ飛び込むのと、この男の言う事を聞くのと、どちらが選びやすかったか。
 無免ライダーは後ろをついてくる名前を度々振り返った。もっとも、泣きべそをかいていた名前は、その事にまったく気が付いていなかったが。彼は背中から襲われたら堪らないと、そう思っていたに違いない。しかし、仮に名前が彼の視線に気付いていたとしても、攻撃を仕掛ける気にはならなかっただろう。それだけ、先のヒーロー集団が怖かったのだ。

 十数分ほどで、男の住居に到着した。時間帯が良かったのか、それとも単なる偶然か、誰と会うこともなかった。初めて踏み込んだ人間の棲み処には、男の他に誰も居ないようだった。臭いがしないのだ、この男のものの他に。「えー、と」
「そっちに風呂がある。使い方は解るか?」
 人間の男は言いながら指で指し示した。扉がある。名前は既に泣き止んでいたが、声が上手く出せず、結局首を横に振ることで意思表示をした。
「……じゃ、一緒に行こう」
 連れてこられたのは、小さな四角い石が壁一面に敷き詰められた、小さな空間だった。石は一つ一つがつやつやと独特の光沢を持っていた。青魚の鱗でも、こうは光らない。名前が呆然と立ち尽くしていると、無免ライダーが説明した。
「これの穴から――」長い管を有した、小さな棒のようなもの。男はその先に無数に空いている黒い穴を指していた。「――水が出るようになってる。下の――この取っ手だ――これを回せば、自動的に出るようになっているから」
 棒立ちになっている名前を見て、無免ライダーは管を壁から取り外し、少しだけ取っ手を捻ってみせた。管の先から水が流れる。名前は合点した。
「取り敢えずは、その汚れを落としてくれ。話は後で聞くから」
 そう言って無免ライダーは小部屋から出ていった。敷き詰められた石は、どうやら水を通さない為のものらしかった。配水の構造も機能的で、人間は便利なものを作るなあと、ぼんやり思う。こうして家の中に水浴びの場が備え付けられている以上、人間にとっても水は必要不可欠なものなのだろう。
 どこか嬉しく思いながら、言われた通り体の汚れを洗い流そうと取っ手を捻り、それから名前は悲鳴を上げた。


 向かい側に座っている無免ライダーを眺めていると、ひどく不思議そうな顔で「何だ?」と聞かれた。普段彼が身に付けているゴーグルとヘルメットはなく、今の彼はC級ヒーロー・無免ライダーではない、ただの人間だ。
 そういえば、名前は未だに彼の本当の名前を知らない。
「もしかして、不味かったか。魚介類は入っていないよ」
「別に……そんなんじゃないわ」
 名前はトマトスープを掬ってみせた。今となっては、箸だろうとスプーンだろうと思いのままに使うことができる。「これは美味しいわ」
「だったら何だい。俺の顔に何かついているのか?」
「ただ……」名前は口籠った。
「ただ?」
「どうして私はあなたと一緒にいるのかしらって、そう思っただけ」
 無免ライダーは手にしていた銀食器を皿に凭せ掛けた。「俺は、名前さんと一緒に暮らすの、結構楽しいけど……」

 二ヶ月前に会ったあの日から、名前は無免ライダーの家で毎日を過ごしていた。人間の言葉で言うなら同居とか、同棲とかが当て嵌まるだろう。もっとも無免ライダーの方は、名前のことをヒモのようなものだと思っていたが、彼女はそれを知らない。
 別に、海に戻ればよかったのだ。
 名前はただ、海では到底知り得ないことを知りたかっただけだった。しかし陸に上がったあの日、人間というものから関心を失くしてしまった。元より期待値が高かったわけではないのは幸いかもしれない。人間の造る文明や機器、文化には未だ興味は尽きないが、人間そのものには食指が動かないのだ。
 それなのに、名前は未だ無免ライダーの家で無為徒食に過ごしている。その事が名前には不思議で仕方なかった。

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