窒息しそうになりながら汚水の中を泳いだ甲斐もあり、名前は運良くあの危険な人間達から逃れることができた。彼らは自らをヒーローと名乗っていたか。人間の言語は海人族が使うそれと違わぬものだったが、単語自体は深海では使わないものも多く存在するようで、名前は「ヒーロー」が何なのか、いまいち解っていなかった。おそらく、自分達と違う生き物を駆除する役目を担った、兵隊か何かなのでは。
 人気のない場所で名前は陸地に上がり、えぐえぐと胃の中の物を吐き出した。ばっちい。
 体中から嫌な臭いがした。汚染物質と腐敗と、それから人間の臭い。海の中のそれとはまったく違う、嫌悪感すら催す臭いだった。もちろん海にも汚い場所はある。しかし少なくとも、名前が暮らす場所は清潔に保たれていた。これほどまでに汚らしい水の中を泳いだのは初めてだ。
 日は西に沈みかけており、名前はそっと立ち上がった。それから顔についていたヘドロを拭う。
 これだけ暗くなれば、誰かから人間ではないことを咎められることもないだろう。ヒーローから逃れることだけを考えていたおかげで、名前にはもはやどちらへ行けば海へ出るのかも解らなかった。この水路を辿っていけばいずれは海へと繋がるだろうが、ただでさえ自分が異臭を放っているというのに、その原因たる用水路にはこれ以上居たくなかった。
 名前は辺りを見回し、よろよろと歩き始める。周りには誰も居なかった。一刻も早く、綺麗な水に浸りたかった。もううんざりだ。

 ひたひたと、足跡を残しながら歩く。真っ黒くぎらぎらときらめく地面は熱されており、嗅ぎ慣れない臭いを放ちながら名前の足の裏を焦がした。どうしてこんな目に遭わなければならないのか。口からは例の人間達への呪詛が漏れた。名前はただ、海の中に居たのでは知り得ないことを知りたかった、それだけなのに。
 確かに――確かに、人間を食べたことはある。海人族と人間族は似て非なる種族であり、食料資源に乏しい深海ではどんなものでも食べてきた。人間だって、それに変わりはない。しかし、この日の名前は彼らに危害を加えるつもりはなかった。そりゃ、攻撃をされてからはこいつらを全員食ってやろうかとも思ったが、結局食べなかったじゃないか。それなのに、彼らは有無を言わさず名前を攻撃してきた。なんて野蛮な生き物なのか。
 その時だった。背後から声が掛かる。
「君、随分と濡れているようだが大丈夫か?」
 振り返ってみれば、一人の人間が名前の方を見詰めていた。

 妙な格好をしていた。全身が黒く、深海の暗闇のようだった。顔も上半分に何やら薄い板のようなものを嵌めていて、頭には丸い何かを被せている。それから見たことのない、細い棒と輪を組み合わせてできたような物体に跨っていた。これも人間なのだろうかと名前が訝しんだその瞬間、男に緊張が走る。
「お前、怪人だな?」男が叫ぶように問い掛ける。
 人間が跨っていた何かから降り、その乗り物を脇へどけた。ガチャガチャと忙しない音を立てていたが、やがて名前に向き直る。男は両手を前に出していた。「ヒーロー、無免ライダー参上!」

「ヒー、ロー――」名前は絶句した。
 瞬間的に、先程の悪夢が蘇る。何人もの人間が名前を殺そうと襲い掛かってきた事。鬼のように強い男が名前の脇腹を殴り付け、数メートル先の橋の手すりまで吹き飛ばした事。そして、じわじわと鈍く、それでいて耐え難い痛みが再び左の腹から自己主張を始める。さあっと、血の気が引いた。
「す、」言葉が漏れた。
「すみません、ごめんなさい、本当に、勘弁してください」
 そう言って震えながら頭を下げた名前を見て、男は――無免ライダーは呆気に取られた。ぽかんと口を開け、謝り続ける怪人を眺める。何故自分がこうまで怯えられているのか、全く解らない。そうやって油断させる作戦だろうかと一瞬考えたが、怪人の肩が小刻みに震えている様子は、とても演技には見えなかった。
 というか、泣いてやしないか?
「あの……君、大丈夫か?」
 名前はぶるぶると震えながら、引っ切り無しに謝罪の言葉を吐いた。それが止んだのは、肩に手を置かれた時だ。名前はびくっと震え、咄嗟に顔を上げた。すぐ目の前に来ていた人間が、ひどく心配そうな声色で「何か悩んでいるのか? 話くらいなら聞いてやれるぞ」と口にする。
「というか君、よく見ると凄い格好だな……本当に大丈夫か?」
「あ、の……」
 全身がヘドロで塗れているのを上から下まで眺め回していたヒーローの男は、名前の小さな声に顔を上げる。
「あー……」男が一瞬、言葉を紡ぐのを躊躇した。「俺の家が近くにあるんだ。取り敢えず――体、洗わないか。ひどい臭いがするぞ」
 というか君、本当に怪人だよな、と男は問い掛ける。名前はめそめそと泣きながら頷いた。人間は先の乗り物の所へ戻り、再びガチャガチャと言わせたが、今度は跨ることなく押しながら名前の方へ戻ってきた。
「こっちだ。すぐそこだから」

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