やわらかな浴室の中で

 夏の西日が、容赦なく名前を照らした。じりじりじりじりと、体中の水分を奪っていく。一呼吸する度に、口から鼻から干からびていくような、そんな錯覚を覚えた。夕暮れ時、昼間に比べてその日差しは随分と弱い筈だったが、それでも深海が故郷である名前にとっては耐え難いものだった。
 借りたゴーグル、その隙間を縫って流れ落ちる汗を、ぐっと拭う。
 やっとのことで辿り着いた、一軒のコンビニエンスストア。頼まれたのは絆創膏とトマト缶、それから清涼飲料水。自動ドアをくぐれば、ひやりとした冷気が名前の頬を撫でた。いらっしゃいませと気の無い声が名前を迎える。レジに立っていた店員はちらりと名前を見て、それから訝しげに目を細めた。何も言わない。
 全身を黒いライダースーツに身を包み、手袋を嵌め、ヘルメットとゴーグルを装着したままの名前は、確かにコンビニには不釣り合いだ。しかし、誰も何も言わない。
 結局のところ、人間は他者に対し、それほどの関心を抱いてはいないのだ。せいぜい、妙な人が居るなと、そう思うだけ。
 名前は言われた通りの品を買った。絆創膏は求められているサイズが解らなかったから一番大きなものを。保存食品の陳列された棚からトマトの缶詰を一つ。それから指定された通り、青いラベルの飲料水。薄い合成樹脂に阻まれた無色透明な液体に、ごくりと喉が鳴る。水が欲しい。

 名前は何の滞りもなく会計を済ませた。それから名残惜しくも店を出る。コンビニから一歩踏み出せば、再びうだるような熱気に身を包まれた。暑い。あと二、三時間もこの状態に身を置いて居たならば、きっと干からびてしまうだろう、そんな気がした。
 再び流れ始めた汗を拭い、名前は歩き出した。


 名前を出迎えた無免ライダーは、どこか嬉しそうな笑みを浮かべ、「おかえり」と言った。ただいまの挨拶もそこそこに、名前は汗を拭いながらコンビニの袋を差し出す。彼はありがとうと言ってそれを受け取ったが、その中身を見た瞬間、不思議そうに眉を上げる。
「名前さん、水を飲まなかったのかい?」
 名前は顔を顰めた。
「だって、あんたが買って来いって……」
「悪かったよ。何も飲まずにあそこまで行くのは辛かったろう」無免ライダーは申し訳なさそうに言った。「風呂の用意が出来ているから、先に入ってくると良い」

 無免ライダーの気遣いはありがたかった。久々の外出は、実のところ、人間の視線よりも太陽からの日差しの方が数十倍辛かったのだ。浴槽の中に溜まっていたのは冷水だ。手袋を外し、手を水に浸けると、それだけで生き返ったような気分になる。急いで服を脱ぎ、全身を水に浸した。先程まで感じていた倦怠感が、嘘のように消えていく。
 鼻の上まで水に浸かっていると、浴室の外から無免ライダーが声を掛けた。
「名前さん、存外人間も、捨てたものじゃないだろう」
 返事の代わりに、あぶくを吐き出す。
 名前の返事が無いのをどう思ったのか、無免ライダーは付け足した。「君が外を出歩いても、誰も気にしなかっただろう? 君が怪人だからといって、気に病む必要はないよ」
 タオル、此処へ置いておくからねと、そう言って無免ライダーは浴室の側を離れた。名前は水中で溜息を零す。確かに名前は怪人であって、人間ではない。ただ、その事に負い目を感じているわけでは決してない。そこのところを、無免ライダーは解っていない。
 単に、人間に興味が無いだけだ。
 外へ出ないのは、彼らと関わりたくないだけだった。人間は海を汚す。そして、名前達怪人を白い目で見る。S級ヒーローに殺されそうになったのも、記憶に新しい。興味が無いどころか、嫌悪感を抱いていると言ってもいいかもしれない。結局のところ、人間という生き物は、名前達怪人とは似て非なる存在なのだ。無免ライダー以外の人間と、口を利きたいとは思わない。
 しかし、彼は誤解している。名前が外出せず、人間と関わろうとしないのは、自分が怪人であって他の人間にコンプレックスを抱いているからだと、無免ライダーはそう信じている。
 名前は彼の勘違いを訂正したりはしなかった。確かに、外へ出たくない事への言い訳に自身の見た目が違うことを、名前は度々挙げる。しかしそれは嘘だ。口からの出まかせ、偽りだ。そもそも、人間に混じって暮らしたいとも実のところ思っていないのだが、その事も無免ライダーには伝えていない。

 追い炊き機能をオンにして、名前は浴室から出る。そして自分の元へ寄ってきた名前を見て、無免ライダーが眉を顰めた。水気は拭いた筈だがと内心で首を傾げる。以前入浴後にそのまま出てきた時、床が濡れるだろうと怒られたのだ。名前としては、濡れたままでも一向に構わないのだが、彼が言うなら仕方ない。
 無免ライダーは「服は着なくても構わないから、せめて下着を着けてくれないか」と口にした。名前は納得する。人間とは難儀な生き物だなあと思いながら、渋々と以前に買ってもらった下着を身に付け、無免ライダーの元へ戻った。
 食卓には麦で作られた麺と、それから冷製のトマトスープが並んでいた。

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