イアイアンにとって、名前という存在は、言うなれば目の上の瘤のようなものだった。

 名前は今、イアイアンのすぐ左隣でぐちぐちと不平を漏らしている。しゃがんでいる事とも相俟って、まるで子どものようだとイアイアンは思う。
 側から離れて行かないところをみるに、単に体の良い愚痴り役として扱われているようだった。何の相槌も打っていなかったのだが、どうも名前は気にしていないらしく、先ほどからずっと一人でぶつぶつ言っている。
 ――やれ師匠が思ったより冷たいだの、頑張ったのに褒めてくれないだの。
 しかし仮にも兄弟子を愚痴の聞き役にするとは、いかがなものか。別に、愚痴を聞くこと自体は良いのだ。返事を求められていない以上、聞いているだけの此方としては右から左へ聞き流せばよいのだし、それで彼女の気が楽になるというのならそれでもいい。元から相談役に徹することが多いため、愚痴を聞くことにも正直なところ慣れている。名前の方もそれを解っているから、イアイアンを聞き手に選んだのだろう。
 ただ、釈然としないのは何故だろうか。

 名前は先日、ついにA級ヒーローへと昇格した。B級に上がったのも早かったが、A級に上がったのも比較的早かった。
 アトミック侍の元へ弟子入りした彼女は、女の身でありながらその剣捌きは見事なものだった。無論、アトミック侍はおろか、イアイアンら三剣士には依然として劣るが、毎日男と同等量の鍛錬をこなしており、着々と腕を磨いている。
 ヒーローになれ、そしてA級へ上がれ。それがアトミック侍から彼女に出された修行の一つだった。
 アトミック侍は剣の業ももちろんだが、その心構えにも重点を置いている。彼が言うところによれば、人の為に剣を振るい、高みを目指すことが、剣の道を進む上で欠かせないことなのだという。アトミック侍の門下に下った者はその大半がヒーローとして籍を置いており、女である名前も例外ではなかった。
 彼女が弟子となったのは今から一年ほど前で、ヒーローになったのは半年ほど前だ。彼女の成長は著しく、世間からの評価はさほど高くはなかったが、今では彼女と同じ頃に弟子入りした誰よりも優れた技術を身に付けていた。A級に昇格したことが、それを物語っていると言っても良いだろう。弟子達の中でも、A級ヒーローはあまり居ない。

 名前がヒーローになり、そして血の滲むような努力をしてA級にまで上り詰めたのは、ひとえにアトミック侍に褒めてもらいたいからだった。彼女が両手の豆ができるたびに潰し、女らしくない筋肉をつけたのも、万事が万事、アトミック侍を慕うが故なのだ。

「アトミック師匠も、もっと褒めてくれたっていいのに。人助けとか、正直照れ臭いし。清く正しく美しくっていうのも、私の柄じゃないし。それなのに、おう頑張ったな偉いぞって、それだけ。もっと褒めてくれてもいいのに」
 名前がA級ヒーローになったのをアトミック侍に報告した時、イアイアンも間近でそれを見ていた。アトミック侍は剣の指導の片手間にそれを聞き、先の言葉を名前に与えたのだった。師匠が名前から目を離し、その一瞬後に彼女が顔を強張らせたのをイアイアンは目撃している。
 アトミック侍からの評価だけを生き甲斐にしている彼女にとって、言葉少なに告げられたそれは、嬉しさよりも不満がより多く募るらしかった。

 自分よりも数段劣る彼女にどうして、苛立ちにも似た感情を抱くのだろう。彼女が自分に愚痴をこぼしているから、ではない筈だ。名前への焦燥は慢性的に抱えている。


 衝動的に――そう衝動的に、イアイアンは名前の頭を撫で回した。いつも剣を振るっている右手ではなく左手である筈なのに、その首はか細いため、ぐわんぐわんと彼女の頭は揺れた。指にかかる柔らかな髪の感触に、何故だか妙に照れ臭くなって、目を明後日の方向へ向ける。名前は困惑したのだろう、それまでの姦しさが嘘のように口を閉じた。
「よくやったよ、お前は」

 名前がイアイアンの方を見上げたようで、思わず腕を引く。じっとりとした視線を感じ、頑なに顔を背けた。何故撫でたのかと。そう、理由を問われている気がした。もっとも、イアイアンとしてもどうして彼女を撫でる気になったのかなど解らないのだから、聞かれても困るわけだが。
 そもそも撫でるってなんだ、撫でるって。
 同じ修行を重ね、寝食を共にしている内にいつしか気にならなくなっていたが、彼女だって年頃の女性であるわけで、いくら兄弟子とはいえ頭を撫でられて良い気はしない筈だ。むしろ下手したらセクハラだ。

 しかしイアイアンの心配も余所に、名前はただ「うれしいです」と言っただけだった。イアイアンが見下ろせば、彼女は笑っていた。アトミック侍に褒められた時のような興奮し切ったそれとはと違い、ただ純粋に微笑んだだけのような、ふにゃりとした笑い顔だった。
「まあ……本当はアトミック師匠に撫でて貰いたいですけど」
「斬るぞ」

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