私の名前は

 既に名前の日付感覚は使い物にならなくなっていた。最初の内は数えていたのだが、両手で足りなくなった頃から数えるのをやめてしまった。二週間が経ったのか、それとも既に一ヶ月以上経過しているのか、よく解らない。緊張の糸をいつでも弛まないよう張り詰めておくというのは意外に疲れることで、近頃ではそれさえ放棄したいと思う。キリサキングは相変わらず夜間にやってきてはただ名前の隣で眠るだけだった。本当に、あの怪人には名前を殺す気がないのだろうか。いや、それでも――。
 ぼんやりと考えていると、部屋の扉がノックされた。メガミメガネが食事を運んできてくれたのだろう。そう思って入口へ目を向けたのだが、そこに立っていたのが見知らぬ男だったことで名前は一気に覚醒した。
 黒い服を着て、マントを羽織っているその男は両目がきゅっと吊り上っており、耳も鋭く尖っていた。ベッドに腰掛けている名前を見付けたその男は笑みを浮かべ、にやりと擬態語がつきそうなほどに口角を上げた。男の口に鋭い牙が並んでいるのを見て、怪人なのだと見当をつける。名前は心なしか男から距離を取るように、じりじりと後退した。

 男は手に盆を持っていた。
「キリサキングの奴が人間飼ってるって聞いたから、どんな奴かと見に来たわけだが、いいねぇ俺好みだよ」
 怪人はすたすたと歩いて来て、名前の目の前に立つ。はいコレ飯ね、と食事の乗った盆を差し出す男は、名前がびくりと身を震わせたのを見て、ますます愉快げに笑った。恐る恐る受け取ると、怪人はにっこり笑った。メガミメガネは、どうしたんだろう。
 判断を付けかねている名前だったが、面前の男が微動だにしないことに気が付いた。いつまで経っても出て行く気配がない。どうしたのかと見上げると、その男がただ黙って自分を見下ろしていることに気が付いた。
「女らしいとは聞いてたが、こんなに若い女だとは知らなかったね」
「あ、あの……?」
「知ってるかいお嬢さん」怪人の口が弧を描いた。「人間ってのは、血液の二割を失うと死んじまうんだ。つまり、一割ちょいならなくなっても大丈夫なのさ」
「こう見えて、俺は由緒正しい吸血鬼でね」
 ちゃんと血統書も持ってるぜと笑う怪人が、何を言いたいのか解った。名前が盆を放り出し、男の身を掻い潜って走り出すと、思いの外早く鎖がびんと張り切り、呆気なく転倒した。振り返ってみれば、怪人が鎖を踏み付けている。「はい残念!」

 吸血鬼はひどく身軽な動きで名前のすぐ目の前に屈み込んだ。恐怖に駆られて後退するも、本当に鎖の限界が来たらしく、すぐにそれさえ叶わなくなる。怪人はにやにやと意地の悪い笑みを貼り付けていて、その目は既に名前のことを獲物としか思っていないようだった。男の手から逃れようとするが、膨大な力の差の前に成す術がない。
「大人しくしてくれよぉ――なんて、そりゃ無理か」やはり愉快げに笑っている吸血鬼は、そのまま名前の顎をくっと持ち上げる。爛々と輝いている男の目、そして何より、その鋭利な歯から目が離せない。「良いぜ、そうでなくちゃあ」

 男が名前の襟元に手を掛け、紙を破くようにしてそれを裂いた時、名前の頭はある一点で占められていた。しかし、声にならない。目の前の男の顔が徐々に近付き、首筋に男の吐息を感じた。吸血鬼がかぱりと口を開けた時、漸く言葉が飛び出した。
「たす、たすけ――キリサキングさ――」
 視界から吸血鬼が消えた。


 吸血鬼を蹴り飛ばしたキリサキングは、その両腕を重ね合せた。じゃきんと重い金属音が耳に届く。吸血鬼は最初目をぱちくりと瞬かせていたが、やがてげらげらと笑い出した。背を向けて立っているキリサキングの表情は解らなかったが、彼が静かに「この子に手を出さないで」と言ったのはちゃんと聞き取れた。吸血鬼は笑いながら部屋を出て行き、ようやく名前もほっと肩を撫で下ろした。
「ごめんね」キリサキングが言った。
 くるりと振り返った彼は、いつかのように屈み込んだ。両腕は後ろへ向け、名前からはその峰しか見えない。
「メガミメガネにはちゃんと言い聞かせておくから、許してね」
 彼の声にいつもの得体の知れない不気味さはなかった。むしろ、しょげ返っているように感じてならなかった。キリサキングはその表情さえ変えなかったが、身に纏っている雰囲気がいつもと違っていた。怪人に、見えなかった。「ごめんね。噛まれてない?」
「あの……」
「うん?」
「わた……私の名前、名前――名前って、いうんです」
「そう」キリサキングの唯一見えているその右目が、ふにゃりと弧を描いた。「名前ちゃん」

 その夜、名前は初めてキリサキングの背を見詰めながら眠りについた。それが朝まで妨げられることはなく、怪人協会に連れてこられて以来、初めてぐっすりと眠ったのだった。もう名前はキリサキングの名を呼んでもどもることはなかったし、彼の両腕を見ても怯えて身を竦ませることもなくなった。

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