緑の十字

 キリサキングが名前を殺す気が無いからといって、名前は逃げるのを諦めたわけではなかった。一週間以上無断で休んでいるのだから、誰かが家に来て、名前が居ないことに気が付いているのではないか。捜索願の一つでも出されているのではないか。名前は早く警察に――いや、ヒーローに助けて欲しかった。この軟禁生活は今のところ嫌なことは起きていなかったが、いつそうなるかと気が気ではない。

 例の着替えを持ってきた日から、キリサキングは日中でもちょくちょく名前の元へ姿を現すようになった。その大半が新しい服を持ってきた時で、名前としては服などどうでも良いから近付かないで欲しいというのが本音だった。夜に同じベッドで横になっているだけでも辛いというのに、昼日中にまで彼と顔を合わせなければならないとなると、心休まる時がないではないか。キリサキングはそんな名前の気持ちに気付いているのかいないのか、昼の間にやってくる時はいつも新しい服を持っていた。

 がしゃん、と、今日も名前は鎖を放り出す。足を繋ぐそれはさほど頑丈そうには見えないのに、やはり女の柔腕ではどうにもならなかった。刑事ドラマなどで出てきそうな手錠を、そのまま足用にしたかのような足輪は、どうしても踵が通らなかった。これを取ろうとするなら、もう踵を切り落とすしか――絶対に抜けられないと解ってはいたが、やはり名前は諦め切ることはできなかった。この足を繋ぐ鎖さえ何とかなれば、この息の詰まる部屋からは逃げられる筈だ。
 ぐっと鉄の輪を引っ張ると、足の甲と踵の後ろ側に痛みが走る。随分と無理な動かし方をしたせいで、名前の左足首は赤く腫れ上がり、血も滲んでいた。しかし、名前はやめなかった。もう少し、あともう少しなのだ。
 もう一度足を繋ぐ輪を手に取った時、何の前触れもなく部屋の扉が開いた。


 バーンと大きな音がして、文字通り名前は飛び上る。戸口に立っていたのはキリサキングだった。肩の上に、人間、を、乗せている。
 すたすたと部屋の中に入ってきたキリサキングは、ちょうど部屋の中央に来た辺りでその人間を放り投げた。三十代半ばといった風情のその男には見覚えはなく、荒い息を繰り返し、大きく開いているその口はぽっかりと空洞が続いているように見えた。男の口から血塊が吐き出される。すっかり怯え切っている名前と、その男の目が合った。男が目を見開いて盛んに口を開閉させている様は、おそらく――助けを求めているのだろう。
 しかし、男は助けを求めることができない。舌が無いからだ。
 名前が何も言えないでいると、キリサキングがその男の顔面を蹴り上げた。ぼぐりと嫌な音がして、鮮血が舞う。男が無様に倒れ込んだのを見て悲鳴を上げそうになったが、声にならなかった。五月蠅いのは嫌いなんだよね、と、そうキリサキングが言っていたじゃないか。名前が口を押え、がくがくと震えていると、キリサキングが言った。「私さ」
「こんなんでもさ、一応気にしたりするんだよ、人間関係みたいな。もっとも此処は人間なんてあなたしか居ないけどさ。それで、何、どうしてメガミメガネばっかに懐いてるの?」キリサキングが足を振り上げ、一直線に男を踏み付ける。ぎしぎしと骨の軋むような音さえ聞こえてくるようで、男が声にはならずとも絶叫しているのが手に取るように解った。怪人の目はその長い前髪に隠れて見えなかったが、頭の角度からして足蹴にしている人間の男の方を見ているようだった。しかし、彼が話し掛けているのは名前だった。「あなたを連れてきたの、私なんだよ?」
「それなのに、あなたは私に怯えてばっかだし。ま、その気持ちも解るけどさ」

「けどさあ」
 キリサキングが右腕を振り上げた。名前は目を閉じようとしたが、あまりに凄惨な光景を前にそれは叶わない。男は、低い呻き声を最後に事切れた。キリサキングが両腕の動きを止めた頃、人間の男だった物体はただの肉塊へと成り果てていた。


 男は誰だったのか、どうして殺されたのかは解らない。しかし、キリサキングがわざわざ名前の元へ来てまで男を細切れにした理由はうっすら解るような気がした。つまり、滅多なことをすれば次は名前がああなる番なのだ。震えは止まらず、音を立ててはいけないと思えば思うほど、歯がガチガチと触れ合わさった。キリサキングがゆっくりと名前の方へ顔を向け、思わずびくりと痙攣する。キリサキングはいつもの通り、いや、いつにもまして穏やかな顔をしていた。
 それから、名前の足へ目を留め、その右目を細める。
「あとさ、別にあなたが逃げたいと思ってるのは勝手だけど、そういうのやめてくれる。言ったよね、私、あなたを傷付けたいわけじゃないんだよ」
 キリサキングがゆらりと背を伸ばし、名前は再び痙攣する。ついに――ついに殺されるのでは。しかし名前の不穏な予想に反し、キリサキングは黙って部屋を出て行った。可哀想な男の死体を残したまま。

 五分と経たない内に、キリサキングは帰ってきた。その両腕で挟むようにして小さな木箱を抱えていて、名前は思わず二度見した。緑色の十字が描かれているそれはどうみても救急箱で、あまりの不釣り合いさに彼への恐怖を忘れてしまった。まじまじと見詰めていると、キリサキングは「何その顔」と呆れたように言った。
「これで足の外して、それからちゃんと治療してよ」
 キリサキングは救急箱を名前の足元へぽんと投げ、それから腕に掛けるようにして持っていた小さな鍵も寄越した。足輪を外す鍵だった。言われた通りに足の拘束を外し、それからおずおずと救急箱を手に取る。
「私がやってあげたいけど、切り裂かれたら困るでしょ。見ててあげるから、その足ちゃんと手当して」

 キリサキングは本当に傍から見ているだけだった。時々「それ、包帯緩くない?」とか「ちゃんと真面目にやってる?」とか口を挿んだが、それだけだった。むしろその声音が名前を気遣っているように聞こえて、先程人間一人を切り裂いたのと同一人物には到底思えなかった。
「あの、腕……」
「んん?」
「その、その腕で包帯、どうやって……」
「ああ。別にこれ、私が巻いたんじゃないよ。怪人になったときはもうこうだったから」
 いくら私でもこの腕じゃ自分で巻けないよと口にするキリサキングに、名前は内心で納得した。それから、彼と普通に会話ができた自分に驚く。それほどまでに、救急箱を両手で抱えている怪人が物珍しかったのか。キリサキングは名前が手当を終えたのを見て、「ベッドの方も同じ鍵だから、そっちもさっさと外して」と言った。名前が驚きに目を見開いて彼を見ると、キリサキングも名前を見た。
「この部屋で過ごしたいなら別に良いけど?」
 ほんの一瞬だけ、逃がしてもらえるのかと思った。しかし夢は所詮幻で、名前は急いでベッドの方の鍵も外した。

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