My name is

 目を覚ました時、見慣れない、薄汚れた天井が目に入った。コンクリートが剥き出しになっているそれは罅割れていて、所々蜘蛛の巣が張っている。起き上がって辺りを見回してみると、見たことのない場所だった。頭が痛い。後頭部を押さえると、小さな瘤になっているのが解った。固いベッド、何もない埃臭い部屋、奥の棚は色とりどりのガラス瓶でいっぱいだったが使われた様子はなく、ベッドの向こう側には薄汚れた便器があった。いったい此処はどこだ。何故私は見も知らぬ場所で寝ていたのだ。
 取り敢えず状況を把握しようと思い、立ち上がろうとすると足に違和感が走った。動かせば、じゃらりと細かな金属が触れ合わさる音。左の足首に目を遣ると、鎖がついていた。その先を辿れば、ベッドの足側のパイプに繋がれている。名前はぎょっとした。
 それから、何が起こったのかを思い出した。家に怪人がやってきて、押し入れに隠れて、暫くしてから出てみたら目の前にあいつが居て、それで――。
 気絶した、のだろうか。
 名前は恐る恐るベッドから立ち上がった。その動きに合わせ、鎖がじゃらじゃらと滑り落ちる。一歩一歩ベッドから離れると、鎖は三メートルほどの余裕があった。しかしそれだけだ。名前が呆然と立ち尽くしていると、後ろからカツカツと高いヒール音が聞こえてきた。驚いた名前が隠れる間もなく、奇妙な風体をした女性が現れた。
「あら、起きてたのねん」
 手に冷えた食事を乗せた盆を持ったその人は、人間ではなかった。
「これあなたの分よ」そう言って彼女は名前の方へ近寄ろうとした。
 逃げ出そうとした名前の足が鎖に引っ張られ、呆気なく転倒する。その様子を黙って見ていた怪人の女は、特に気に掛ける様子もなくベッドに近寄り、盆を置こうとした。
「ちゃんと食べるのよん」
「……ぁ、い、いら」言葉が出なかった。「い、い、いらな……」
「いらないの?」
 不思議そうに名前を見遣る女に、精一杯頷く。その拒絶も、さほど彼女の気を損ねたりはしなかったようで、「じゃ、大食漢にでも食べて貰うわ」と言って、その女怪人は早々に部屋を出ていった。後には心臓が飛び跳ねている名前だけが残された。無様に尻餅をついたままの。


 怪人の女が去ってから、名前は段々と状況を把握し始めていた。私はあの、包帯でぐるぐる巻きの怪人に連れ去られたのだ。何のためかは解らない。よくあるおとぎ話のように、太らせて食おうとでもいうのか。何にせよ、名前がそれまでの日常から切り離された場所に居るのは明らかだった。
 手始めに、名前は鎖を解こうと奮闘した。ベッドのパイプを揺すってみたり、どうにかして足を抜けないかと引っ張ってみたり。しかし結果は芳しくなかった。パイプベッドはその見た目に反して頑強で、女一人の力ではびくともしなかった。足首にぴったりと嵌っている足輪は、抜け出そうともがけばもがくだけ自身の足に痛みが走った。この鎖から逃れようと思うなら、足を切断する以外にないのではないか、そう思えてならなかった。
 次に、名前はベッドを動かそうとあくせくし始めた。これは多少効果があって、ほんの数ミリずつだが移動することができた。この調子で出口まで持っていけば、もしかすると――。
 名前のその行動に終止符を打ったのは、「何やってるの」という聞き覚えのある声だった。

 名前はびくりと身を揺らし、ベッドから手を離した。恐る恐る振り返ってみれば、見覚えのある怪人の姿。ざんばら髪に包帯を巻き、黒衣を纏った両腕が刃をした怪人。ひっと息を呑めば、怪人は名前の手元へ目を向けた。無論、ベッドがある。最初に置かれていた位置から僅かに移動したそれを見てから、怪人は名前を見た。
「それ持って外出るつもり?」
 ひたひたと歩き始めた男から、名前は逃げ出そうと後ろへ走り出した。しかしすぐに鎖の限界が訪れて、またも転ぶ結果になる。「いいけど、あなたの力じゃそこ、通るの苦労するんじゃないかな」
 怪人が「そこ」と言って指示したのはこの部屋の唯一の出入り口である場所だった。確かに、ベッドを横にしたままではそこは通らないだろう。もしかすると縦向きにしてみても足が引っ掛かってしまうかもしれない。
 名前の迷惑を余所に近付き続ける怪人に、名前はついに叫び声を上げた。
「こ、殺さないで下さい!」

 怪人が歩みを止める。「お願いします殺さないで下さい、何でもしますから殺さないで、お願いします本当にお願いします、私まだ死にたくない、お願いですから殺さないで下さい」
 男の両腕が怖かった。鉄の扉を切り裂いたあの両腕が。少し動くだけでびくりと反応してしまう。いつ切り裂かれてしまうのかと気が気ではなかった。必死の命乞いに、怪人は何を思ったのか。尚も殺さないでと懇願し続ける名前に、怪人の男は嘆息した。
「……別に、私はあなたを殺す気はないよ。大切にしたいと思ってる」

「ただ、五月蠅いのは嫌いなんだよね。その口、閉じられないのなら舌を切り取ってあげようか」
 勢いよく口を閉ざした名前を見て、怪人は「絶対に喋るなってわけじゃない」と言った。その声には、聊かの呆れが滲んでいるように感じられた。

 怪人は瞬く間に名前の前まで移動すると、目の前に屈み込んだ。びくりと体を揺らし、身を引こうとするも、鎖が邪魔をしてそれ以上後ずさりすることはできない。怪人が何を考えているのか、名前には少しも解らなかった。感情の無い右目が名前をじっと見据える。男の両腕、刃の腕はどちらもが地に着いているがどちらも後ろを向いており、名前にはその黒い背だけを見せていた。
「私の名前はキリサキング。ほら、言ってみな」
 優しげな声を出そうと努めたのだろうか、男の声はそれまでに聞いたどれよりも穏やかだった。
「――キ……キリサキ、キン、グ」
「……ハァ。まあそれで良いよ」
 怪人の男、キリサキングはそう言って立ち上がると、名前にも同じことを強要した。びくびくしながら立ち上がると、嫌でも目の前の男が目に入る。見上げるそれは、恐怖以外の何者でもない。

 キリサキングは「ほら、さっさと横になんな」とベッドを促した。訳が解らず彼の顔を見詰めると、「あなたは気付いてないかもしれないけどね、今もう零時を回ってるの。私も眠いんだよ」と付け足した。逆らえるわけもなく、キリサキングの言った通りベッドに横になる。
「ほら、もう少しそっちに詰めてよ。これ、元から二人で寝るようには出来てないんだから」
 キリサキングのその言葉を理解する前に、怪人が名前の隣に横になった。声にならない悲鳴を上げて、壁際に後ずさる。キリサキングは気に留めた素振りも見せず、名前に背を向けた。彼の黒髪と、黒衣しか見えなくなる。「そう言えばメガミメガネ――さっきあなたの前に現れた女だけどね――に聞いたけど、食べてないんだって? 明日はちゃんと食べなきゃ駄目だよ」とキリサキングは言い、それから思い出したように「おやすみ」と付け足し、寝息を立て始めた。結局名前は目の前で眠る怪人が怖くて一睡もできなかったし、この奇妙な出来事が全て夢ではないのだと認めざるを得なかった。

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