エーデルワイス

 その日、名前はごく普通の一日を過ごしていた。ある一時までは。
 火曜日は勤め先である病院が午後二時で閉まり、名前達薬剤師も早くに帰ることができる。その日はちょうど風邪が流行っていたようで、喉の痛みに効く薬を多く処方した。そして家へ向かう道すがら、行き付けのパン屋で買い物をした。他に寄り道せずにそこへ向かえば、焼成されたばかりのパンがちょうど手に入る時間帯となるのだ。名前はクルミ入りの食パンと、店長一押しの米粉パンを買う。それから、贅沢にラズベリーのジャムも一つ。名前は温かなパンを抱いたまま、自宅であるマンションに向かった。
 のんびりと過ごせる唯一の日。名前は家に帰ると、早速コーヒーを沸かした。仕事帰りに次の日の朝食代わりのパンを買い、コーヒーを淹れて借りたばかりのDVDを観るのが、名前の火曜日の過ごし方だった。米粉パンを少し齧るのも良いかもしれない。結局、名前はクルミ入りのパンも、米粉のパンも食べられなかったが。ラズベリーのジャムなど、蓋も開けられないままだ。

 やかんがしゅんしゅんと音を立て始めた頃、インターホンが来客を知らせた。よほど気が急いていたのか、「ピンポーン」と鳴る筈のそれは、「ピンポピンポーン」と聞こえた。名前はコンロの火を止め、身支度を整えつつ玄関へ向かう。どうせ、宗教の勧誘に違いない。そう思いはしたが、居留守を使うのは憚られた。まあ、しつこい勧誘如きでこの癒しの火曜日を台無しになどできはしないのだ。名前の考えはさほど間違ってはいなかったが、この時に訪れたのは宗教の勧誘ではなかったし、不用品を押し付けるセールスマンでもなかった。

 名前が玄関の戸に手を伸ばし掛けた時、それは現れた。
 ドアと壁の隙間に、すっと刺し込まれたそれは、刀のようだった。
 刀。時代劇でしか見た事のないそれは淡く鈍色に輝いていて、ちょうど、名前の目の高さと同じくらいの位置にあった。ほんの先端、二、三センチほどしか見えていないが、刀には違いない。唖然とした名前が見守っていると、その刀はゆっくりと下に降り始めた。時折金属が擦り合わされるような耳障りな音を立てたが、刀は何の障害もないかのように滑らかに動いていく。ドアノブの横辺りまで降りた時、がちゃんがちゃんと何か固いものが触れ合う音がした。ドアノブより少し下に辿り着いた刀は、すっと名前の視界から消えた。

 自分が見たものは、一体何だったのだろう。

 名前が考える間もなく、その答えはすぐに解った。
 突然ドアノブががちゃがちゃと音を立て始めた。誰かが入ってこようとしている。しかし、それはすぐに止んだ。異様な雰囲気を感じ取った名前は、少しだけ後ろに下がる。するとドアに裂け目が入り、ばらばらと崩れ始めた。重々しい音を立てて崩れ落ちていくそれは、金属で加工されている筈だった。それが発泡スチロールを砕いたかのようにばらばらと落ちていく。細かく切り刻まれたそれの切り口は実に見事で、元からこういう形だったものをドアとして組み立ててあったのではないかと思えたほどだ。ドアチェーンに繋がれたままの一部分だけが、重力に逆らい壁にがんがんとぶち当たっている。セキュリティの重要さを謳っていたそれは、今やただの鉄の塊と成り果てていた。
 ドアの先に立っていたのは、見た事のない存在だった。
 顔にも腕にも包帯をぐるぐると巻き付け、黒衣を纏ったその男は体の線も細く、一見するとミイラと言えなくもない。血走った右目だけが包帯の間から覗いていた。黒く豊かな髪の毛はざんばらに切られていて、男の姿をより異様なものへと見せている。しかし何よりも名前の目を引いたのは、彼の両腕だった。男の両腕は肘から先が刀になっていた。刃渡りが一メートルもあろうかというそれは、先程ドアを切り裂いた凶器に違いない。
 ――怪人だ。
 名前が悲鳴を上げなかったのは、単なる偶然が重なっただけに過ぎない。第一に、名前はその時自分の目の前で起きた現象が信じられなかった。怪人が自宅のドアを切り裂き、自分の目の前に現れたなどと。にわかには信じがたい話だし、名前だって、人から聞かされたらまずは否定から入るだろう。そんな事ある筈がないと。第二に、名前は恐怖で身が竦んでいた。張り詰めた空気の中、呻き声一つ上げただけで殺されてしまいそうだった。鉄の塊を切り裂いた怪人の腕は、名前の肉体などいとも簡単にばらばらにしてしまえるのだろう。想像に難くなかったし、そんな展開は死んでも避けたかった。
 呼吸すら満足にできない状況の中、名前は怪人を見据え続けた。怪人の方も、名前をただ黙って見詰めていた。二人の間にできた奇妙な絆を断ち切ったのは、町内に流れるエーデルワイスだった。
 どこか物悲しい音で流されるそれを、名前は嫌っていた。小学生を帰宅へと促すその音楽は五時を知らせる時報としては役に立ったが、スピーカーから流されるそれは無駄に音が大きく、びりびりと鼓膜を震わせるので名前は好きじゃなかったのだ。エーデルワイスの原曲がどうだったか覚えていないが、この曲を聴いていると虫唾が走った。もう今日が終わるのだと改めて認識させられるような、そんな気分になるのだ。
 しかし、この時ばかりはそのエーデルワイスも名前の役に立ってくれた。怪人がぴくんと身を震わせたのと同時に、名前は後ろへ駆け出した。どこかに隠れてやり過ごす。それしか自分が生き残る道は無いように思えた。マンションの十二階、逃げられる筈はなかった。出入り口は玄関だけしかなく、あの怪人の脇を擦り抜けての逃走は不可能だろう。
 名前が此処と決めたのは、何てことはないただの押し入れだった。簡単な物置として使っているそこは、人ひとりが隠れられるだけのスペースは有していた。別に、隠れれば生き延びれる――と、そう信じていたわけじゃない。ただ、隠れるという行為を行い、自らを安心させたかったのだ。怪人という非日常的存在から、日常を取り戻したかったのだ。

 そして――幸運なことに、ゆっくりと名前の後を追ってきた怪人は、名前が押し入れの中に隠れるのを見ていなかったらしかった。がたがたと、それでいて音を一切立てないように震えていた名前は、怪人が家の中を歩き回っている音を耳にした。時折、何かが崩れるような音もする。しかしやがて、家探しする音がぱったりと途絶えた。聞き耳を立ててみても、何の物音も聞こえない。
 もしかして、諦めたのだろうか。
 体中の震えが止まるまでに、暫く時間が掛かった。心臓を落ち着かせるのに数分掛かった。部屋へ戻ろうとする勇気を振り絞るのに、小一時間掛かった。
 覚束ない右手でふすまを開けると、目の前で先の怪人が屈み込んでいた。
「やあ」高くもなく、それでいて低くもない、異質な声だった。「隠れん坊は楽しかった?」

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