煙草を吸っていなかったら、あそこのベンツが買えたんですよ
「名前さん?」と戸惑いがちに声を掛けられ、名前は瞠目した。A級二位様が此方を見ている。唖然とした様子の彼の目は名前の右手に釘付けで、参ったなあと手にしていた煙草を揉み消した。
そのまま立ち去ってくれればいいのに、イアイアンは名前の方へやってきた。
「煙草、吸われるんですか」
「はあ……まあ」
ぼちぼちですねと口籠る。
イアイアンが一瞬困ったように眉を下げて、名前は少しだけ胸が痛んだ。
ヒーロー協会本部の一角、設けられた喫煙スペースを使用する者は少ない。ヒーローは体力勝負が基本だから、喫煙する者はあまり多くないのだ。此処で顔を合わせるのは協会の事務員が主で、自分以外のヒーローと会うことは滅多にない。滅多にない、のだが。
「イアイアンさんはお吸いに……ってタイプじゃなさそうですね」
「ええ。俺は少しも」
じゃあ何故わざわざ来た――その言葉はぐっと飲み込む。
一服しに来たのに、それを妨げられることになるとは。右手が勝手に煙草を取り出そうとして、ポケットのある方へ手を動かしたが、取り出す直前になってやめた。名前は慌てて取り繕ったのだが、イアイアンの眉がきゅっと動いたのを見るに、どうも彼にはばれていたらしい。目敏い人だ。
「一日にどれくらいお吸いになられるんですか?」
「……あそこのベンツが買えたとかそういうのですか」
「ベンツ?」
「いや、なんでもないです」疑ってかかったことに、名前は少しだけ自分を恥じた。
この人はおそらく、善意が十割で生きているんじゃないだろうか。尊敬に値することだと思うし、そういうイアイアンだからこそA級二位というランクを保持しているのだろうなあとは思うが、もう放っておいて欲しい。「そんなに多くはないですよ。一日に一つか二つってところですね」
「そうですか」
彼が少し安堵したように見えたが、残念単位は箱だ。
これは、暗に煙草をやめろと言っているんだろうなあ。
イアイアンは直接そう口にはしなかったが、そうでなければわざわざ寄ってこないんじゃないか。気にせず吸って下さいとか、彼なら言っても良さそうなものだが、そう促してこないことから鑑みるに、彼自身が煙草を嫌っている可能性は大いにある。
こういう体に悪そうなもの、嫌いっぽいよなあ。
悪そうというか、悪いのだが。勝手な印象だったが、さほど間違ってはいないだろう。イアイアンは「名前さんが喫煙なさる方だとは知りませんでした」と言った。
「まあ人前では吸いませんからね。お嫌いですか、煙草」
「嫌いというわけではないんですけど」
イアイアンは後頭部に手をやった。
「まあ、吸っててもいいことはないですからね。私も親が吸ってなかったら手は出さなかったと思いますよ。親がひどいヘビースモーカーでね」
名前がにっこりすると、イアイアンも愛想笑いを返した。
定期災因調査の報告に来たのだというイアイアンは、「あまり吸い過ぎないでくださいね」と苦笑した。
「はは、そうですね」
名前がへらへら笑って答えると、イアイアンも困ったように笑った。名前さんの体が心配ですからと言って去って行ったイアイアンに、今度は名前が頭を掻いた。どうも、私は勘違いをしていたらしい。彼自身が煙草が嫌いだから、私に吸って欲しくないのだとばかり思ったのだが。
「煙草、もう少し控えようかな……」名前の呟きは、紫煙と共に空へ消えた。
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