そうだ、コンタクトにしよう

 ふと知り合いの顔を見付け、チェレンは思わず呼び掛ける。
「名前さん!」

 振り返った名前のその表情に、思わず身を竦める。
 すごく、眉間に皺が寄っている。
 彼女が怒るとあんな風になるのか――温厚な名前が怒っているところなど見たことがなかったので、ちょっとだけ新鮮だ。しかし、何か気に障ることをしてしまったのかと不安になる。身に覚えはなかった。
 不機嫌そうな表情をした名前はそのままつかつかと歩いて来て、チェレンの前に立った。やはり不機嫌そうだ。怖い。
 眉間の皺はそのままに、ぐっと顔を近付ける名前。思いもかけず間近で見る彼女の顔に、チェレンはどぎまぎする。
「――ああ! チェレンくんか!」

 パッと名前の表情が変わった。
「名前……さん……?」
「実は眼鏡割れちゃって。誰か全然解らなかったの」
 声は聞き覚えがあったんだけどねえとニコニコ笑う名前は、普段通りの名前だ。チェレンは内心で安心する。どうやら怒らせてしまったわけではなかったらしい。
「ひどい近眼なんだ、私」
「大丈夫なんですか?」
「あんまり。さっきも二回転んだ」
 えへへと笑う彼女は可愛い。雰囲気が違うと思ったら、眼鏡が無いのだ。レアだ。眼鏡があってもなくても可愛い。キュンキュンする。
「やっぱり無いと困るね」
「そうですね、僕も眼鏡が無いと、殆ど何も見えないです」
「そうなの? 度いくつ? っていうかちょっとチェレンくんの掛けさせてくれない? 一回掛けてみたかったの」
「えっ――」予想外の申し出に、思わず声が出た。「――え、ええ、良いですよ」

 普段自分が掛けている眼鏡を外し、彼女に手渡す。途端にぼやける視界。「ありがとう」と言った名前の可愛らしい笑顔がかろうじて見えた。気がした。
「おー」と、名前。
 赤いフレームの眼鏡を掛けている名前は可愛い。多分。自分の視力の弱さをここまで残念に思ったのは初めてだ。
 しかし彼女が今掛けているのは自分の眼鏡だ。チェレンの眼鏡だ。
 チェレンの眼鏡を名前がしている。
 ……やはり目は悪くて良かったかもしれない。

「ピントぴったり! チェレンくんもだいぶ目ぇ悪いね」
 けらけらと笑う名前に、チェレンも思わず笑みをこぼす。
 と、名前が此方を見た。ぼやけた視界の中、彼女の表情が少し変わったような気がする。
「……チェレンくん、眼鏡無いのも格好良いね」
「えっ」
 はっきりと聞き返す前に、名前が「ハイ」と言った。どうやら眼鏡を外したらしい。受け取った赤い眼鏡を掛け直しながら、名前のぬくもりを感じた気がした。我ながら変態くさい。

「チェレンくんコンタクトにしないの?」
 唐突な問い掛けだ。
「え……ええと、特に予定は無いですね」
「そっかあ」その声に残念そうな響きがあった。というか、はっきりと見えるようになった名前の顔も、明らかに残念そうだ。
「うーん……いつもの眼鏡も格好良いけど、私は眼鏡無しの方が好きかも」
 いつもの眼鏡も格好良い――チェレンは赤面しながら、彼女には見えていない筈だとそっと安堵した。


 彼女と別れた後(送っていくと言ったのだが、大丈夫だと押し切られてしまった)、今度コンタクトレンズを買おうと決意する。チェレンの頭の中では、名前が言った言葉がいつまでもリフレインしていた。

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