09

 館長さんが戻ってきてから一週間後、丑三ッ時水族館は再び開館することとなった。初日は大賑わいで、人間にしか任せられないような接客業務を押し付けられた私は休む暇さえなかったが、それでも二日三日と経つと次第に慣れた。丑三ッ時水族館が人間ほぼ不在のまま成り立っていたというのは本当だったようで、制帽を目深に被った魚達によって、この館は運営されていた。
 再始動から数えて五日目にはスポンサーである鼻上社長も来館して、私は彼を来賓室に案内する係に任じられた。鼻上氏は丑三ッ時の突然の休館に驚いていたらしかったが、再び以前のように営業され始めたことで、溜飲を下ろしたようだった。気さくな人で、私の適当な言葉にもチョーウケる!と絶賛した。いや、この人はこれが口癖なんだろう。
「館長さんが留守にしてたって聞いてたけど、あの人やっぱりチョーウケる人だね。格好もそうだけど、突然の失踪って。ププッ!」
「……チョーウケる、人なんですか」
 会うこともないだろう館長さんに、少しだけ興味が湧いた。

 会うこともないだろう――そう思っていたのが仇となったのか、ついに私は館長さんに会ってしまった。
 私はその日、館長室に向かっていた。手が離せないサカマタさんの代わりに、定期報告をする為だった。サカマタさんが言うには、ドア越しでも報告はできるだろうということ。会ったことのない人と話すのは緊張するが、まあ渡された書類を読むくらいはできる筈だ。足を踏み入れたことのない最上階、そこに館長室はあった。
 サカマタさんが言うには、一、二度ノックしたら返事がある筈だという。そこで自分の用件を伝えれば、伊佐奈も納得するだろうとのことだ。しかし、いくらノックをしてみても返答はなかった。館長さんが不在なのか、それとも部屋を間違えているのか、私が首を傾げている時、「そこで何してる」と廊下の奥から声が掛かった。
 声の主は黒いスーツに灰色のコートを纏った人で、顔の反面がクジラのような人だった。従業員として働いている魚達とは大体顔を合わせていたと思ったが、会ったことのない人だ。それに――人間に近過ぎる。顔の一部分を除いては、他はほぼ人間に見えた。館長さんですかと尋ねれば、溜息混じりにそうだと返ってきた。
 館長さんは私を部屋に招くと、用件は何だと言った。私がサカマタさんからの伝言(今手が離せなくて、別の者を向かわせることにした)を伝えると、館長さんは先にも増して盛大な溜息を吐いた。そこまで私に会いたくなかったのか、そう思うと多少傷付く。
 死んだ魚のような目をした人だなあと、不躾ながらそう思った。
 定期報告のレポートを読み上げ終えると、館長さんは「なあ」と私に話し掛けた。
「笑っちまうだろ。こんな化け物みたいな顔……怖いなら怖いって言えよ」
 彼が一体、何を言っているのか解らなかった。
「はあ……正直なところ、あのシャチさんとかドーラクさんとかのほうが数倍怖いんで」
「は……」
 館長さんがまじまじと私を見た。私も彼を見詰め返した。人間には見えないようなその顔の左側面も、やはりそれほど怖いとは思えない。まあ、左右のバランスが取れていなくて見ていると多少不安になってくるし、彼の左目がぎょろりと此方を向くのは多少怖いと言えなくもなかったが、それでも私の中の怖いカテゴリには分類されなかった。例えば私は、未だにサカマタさんと話していると昔のトラウマが蘇り、震えずにはいられない。彼が嬉々として脅かしてくるから尚更だ。ドーラクさんの方も、一番最初に会った時に感じた恐怖を消せ切れていなかった。
 何か奇怪なものを見るような目で私を見続けていた館長さんだったが、やがて「そうかよ」と静かに言って、視線を外した。その声は呆れが滲んでいるように感じられて、私は少しだけショックだった。

 その日から、館長さんは私を避けるのをやめたらしい。詳しく聞く気にはなれなかったが、おそらく、自身の見た目にコンプレックスを感じていたのではないか。その顔のままで鼻上社長と会われていたんですかと尋ねれば、お前馬鹿だろと返ってきた。それ以降メールが来ることもなくなったし、しばしば館長室に呼ばれるようにもなった。この館に勤める人間が私だけなので、人間視点の意見を色々と聞きたいとのことだ。
 館長さんが、私を辞めさせた館長さんみたいな横暴な人でなくて良かったですと告げた時、彼はすっと視線を外し、そうかよとだけ言った。照れたのかもしれない。そう思うと少しだけ可愛く思えた。死んだ魚のような目をしている、その印象は変わらないが。

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