08

 例の会議をしてから数日後、丑三ッ時水族館は大勢の人で賑わっていた。私は唖然とした。別に、賑わっていると言っても、それは人間のお客じゃない――魚達だ。
 一体、何が起こったというのだろう。あくせくと働いている魚達。床をブラシでこすったり、アクリルガラスをぴかぴかに磨いたり。彼らの間には活気があり、明るい雰囲気が流れていた。私がぽかんとしたまま突っ立っていると、私の存在に気付いた魚達が「名前さん名前さん」と手を振ったり、頭を下げたりした。訳が、解らない。
 私は彼らから逃げるように、踵を返して走り出した。向かうのは――ショーステージ。

 血相変えて走り寄ってきた私を見て、一角さんは驚いたようだったが、すぐに事情を察してくれた。
「伊佐奈殿――館長が戻ってきたのだ!」
 私は呆気に取られた。だって、聞いてない。私が二の句を告げないのを見て、一角さんは「聞いていないか?」と尋ねる。ぶんぶんと頷けば、彼は「ふむ」と言って黙り込んだ。曰く、パソコンに連絡が行っている筈だということ。何故パソコン。私が動揺しているのが気に掛かったのか、一角さんは一緒に行こうと申し出てくれた。デビさんでない、見覚えのない調教師達に後を任せ、その場から去る。二人の調教師は私に向かって頭を下げた。
 事務室に向かう道々、何人(いや、匹の方が正しいのかもしれないが、立ったり喋ったりする彼らに匹という呼称は使いづらい)もの魚達が一角さんと、そして私に頭を下げた。一角さんが言うには、どうも彼らは私を知っているらしい。はあ、と生返事をすると、「彼らも名前殿には感謝しているのさ」と彼は笑った。
 一角さんが言った通り、私のメールボックスに一通のメールが届いていた。仕事用として作ったアドレスに誰かからのメールが届くのは初めてで、しかもそれがやっと帰ってきた館長だというのだから驚きだ。目を通すと、留守を任せていたことへの労いから始まり、業務連絡が続いていた。丁寧な方なんですねと呟けば、隣に立つ一角さんは気の無い笑いを漏らした。
「これ……って、館長さんは従業員と顔を合わすのがお嫌いなんでしょうか」
「いや、そういうことではないさ。ただ伊佐奈殿は、まあ……少々横柄でな! 自分のしたいようにする人なのだ」
 説明になっているような、なっていないような。一角さんの顔をじっと見詰めると、彼は視線を外してはははと笑った。嘘臭い。まあここ数週間の付き合いから、彼が誠実だということは痛いほど理解している。嘘をつくのも、正体を隠していた件からも解る通り、私が傷付かないようにしてくれているからこそだ。私だって今でこそ慣れたが、再就職を果たしたその日に実は人間ではないと暴露されていれば、今も此処に居たかどうかは怪しいところだ。
 館長さんに、嫌われているのかな。まあ此方だって、ずっと留守にしていた人に、良い印象は持っていないわけだが。
 再び館長からのメールに目を落とす。そこには、私の業務は以前担当していた鰭脚類の飼育を中心にと書かれていた。そして、解らないことがあればサカマタに聞けと。
「サカマタ、って、どなたですか?」
「ああ、名前殿はまだサカマタ殿と顔を合わせていなかったな」

 対面は早い方がよかろうと、一角さんは私を「サカマタさん」に会わせてくれた。そして私はサカマタさんと顔を合わせている間、ずっと一角さんの後ろに隠れていた。まあ私は彼の名前で気が付くべきだったし、一角さんは一角さんで前もって言っておいてくれるべきだった。サカマタさんは、シャチだった。
 二メートルをゆうに超える彼は私を見下ろし、人間が此処に勤めるようになるとはなと小さくぼやいた。喋るたびに鋭く並んだ牙が覗き、恐いったらない。襟に歯が生えている。
「館長との伝達を任されているのは俺だ。知りたいことがあったら俺に聞くんだな」
「ははははははい!」
 どもった。一角さんからの心配そうな視線と、その向こう側に立つ巨大なシャチからの呆れたような視線を感じる。
「俺は肉食獣の頂点なわけだから、そうやって怯えられるのはむしろ快感でもあるわけだが、そんな事でこれから先やっていけるのかな? んん?」
「すみません!」
 一角さんの制服を掴んでいた手を思わず引いてしまい、ぐえっと小さな悲鳴が聞こえた。サカマタさんは愉快げに笑っていた。

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