06

 意外なことに、例の飼育員――名前は名前と言ったか――名前は「本当の丑三ッ時水族館」にすぐに順応した。水生生物が人の姿を模し、闊歩するというこの水族館に。人間は頭の固い生き物で、普通は自分の常識でしか物事を捉えないものだと思っていたのだが、どうやらそれは全員に当て嵌まるわけではないようだ。名前はある種の馬鹿に分類されるのかもしれない。普通、化物みたいな連中がうじゃうじゃしている職場など、逃げたり辞めたりするんじゃないのか。
 俺を見て悲鳴を上げた彼女は今、ドーラクに平謝りしている。鉄火マキが言うにはむしろドーラクの方に非があるそうだ。あまり興味が湧かないが、気まずそうにしているドーラクを見るのは面白い。
「ええと――ドーラク、さん、いきなり叫んでしまってすみませんでした」
「別に……んな気にしてねーよ、ギシギシ」
 俺はさほど名前のことを好きではなかったが、彼女が幹部の連中と普通に接している光景はいやにしっくりくる。姿をばらす前と変わらず「デビさんデビさん」と慕ってくる彼女は、まあ嫌いじゃない。
 そういえば、名前に自身のことを隠さなくて良くなったことに対し、一番喜んでいるのはカイゾウだった。それに気が付いた時、俺は妙な違和感を覚えた。いや、確かにカイゾウが彼女を慕っているのは周知の事実だった。例の老いぼれは、随分とこの若い人間を気に入っていたのだ。伊佐奈が此処へ来るよりも前から。俺が名前に実際に会ったのはつい最近なわけだが、彼女の存在自体は知っていた。伊佐奈の恐怖政治時代でも、カイゾウが口に出す人間と言えば、名字名前という人間ただ一人だった。奴は今、あの大きな図体で仕事の無い時はいつも名前の後をついて回っている。
 俺はてっきり、一角が一番喜ぶものと思っていた。

 俺と一角は他の連中よりも接点が多い。同じ調教師という立場にあるからだが、こいつはこいつで昔から事あるごとに名前殿名前殿と五月蠅かった。一角と名前の付き合いは長いそうで、一角が病に倒れた時、付きっ切りで看病したのは名前だとか、一時期は名前の寄越す餌しか食べなかった時期があるとかないとか。まあ本人から聞いた話だから事の真偽は定かではないが、ともかくも一角が名前を慕っているのは確かだ。
 それなのに、どうも二人の様子がおかしい。
 一角も、そして名前の方も、互いに対して余所余所しかった。第三者として彼らを見ているからだろうか、二人の食い違いがよく解る。名前は一角に対しどこか遠慮しているし、一角はそんな名前に対し一線引いた態度で接している。ここ数週間、名前殿名前殿と喚いていたのが嘘のようだ。

 別に――放っておけばいい。
 そう思わないでもなかったが、一角との仲はそれなりに良いし、先にも述べたように俺は名前のこともそこそこ気に入っているわけで。
 二人のあの態度は、おそらく俺達が本性を隠していたことにあるのだろう。そりゃ、同僚に隠し事をされていて良い気はしまい。一角が以前彼女が担当していたイッカクであることも関係しているだろう。そして一角は再就職した彼女に率先して接していた分、その反動を一番受けているのではないか。俺はさほど名前と喋らなかったし、もちろん今もそれは変わってはいない。
 大体、俺は最初から秘密を隠したままで人間を雇うのは気に食わなかったのだ。しかも、一角が心から慕っている相手と来ている。奴は情に厚いから、仕事と私事とが分け切れないのは目に見えていた。絶対、後々に支障が出ると。まあ、俺だって積極的に反対せず、結局は名前に隠したままにする事に賛成したわけだから、責任の一端はあるのかもしれないが――。
 何てめんどくせいヤロー共なんだ。


 俺が音もなく彼女の後ろに立ち、その肩を叩くと、名前は飛び上らんばかりに驚いた。デデデデデデビさん!?と、どもりまくる彼女に少し笑う。
「な、何で……ドアは開いてないのに……」
「ばぁか。タコは、あ足先だけだけ通り抜けられれるなら、どどこでも入れんだよ」
「あ、なるほど」
 勉強になりますと頷く彼女が、どうして一角と相性が良いのか解る気がする。何かご用でしたかと、急用だと勘違いしたのか急いた様子で尋ねる彼女の手元には、過去の人間達が残した飼育記録があった。熱心なことだ。
「おままえ、い一角のここと、避けてるる?」
 あからさまに、名前が動揺した。

 尋ねてみても、名前はなかなか口を割らなかった。強気な女は大好きだ。俺が悦に入り始めたのを感じたのか、それとも俺の粘り強さに根負けしたのか、ついに名前は俺の問いに答えた。
「だって、私イッカクの飼育員だったのに、一角さんがそうだって全然気付けなくて……こんなの、飼育員失格じゃないですか」
 合わせる顔がないですと肩を下げる名前に、俺は盛大な溜息を吐き出した。


 後日、二人は以前のように親密な仲となった。いや、むしろ前よりも仲良くなったかもしれない。タコなめんな。

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