俺は、彼女を愛していたのだ。

 俺は急に名前さんに会うのが怖くなった。彼女は俺の隣に居らずとも笑うのだ。それを改めて知らされるのはうんざりだった。俺が彼女を避け始めてから月日が流れ、気付けばもう二年ばかり彼女の顔を見ていない。彼女はいつの間にかA級へ上がっていて、俺はヒーロー狩りを始めていた。

 雨に濡れながら歩く道は、知っているようで知らない道だった。傘は持っていない。アスファルトで舗装された道を一人歩く。先のヒーローで、もう十人は狩っただろうか。ヒーロー協会の連中も漸く俺に注視し始めたようで、狩ったヒーローの中には俺の存在を知っている者も何人か居たようだった。まあ、どいつも俺には及ばなかったが。
 名前さんは、俺のことを知っているのだろうか。
 仮に知っているとしたら、どう思っているのだろう。解らない。どうでもいい。――そう思っていたのに、俺の体ときたら笑えるくらい正直で、後ろから掛けられた声に全身が動きを止めた。
「やっぱりそうだ」
 雨が止む。いや、頭上に傘が差し出されたのだ。名前さんは昔と変わらぬ淡々とした声で、「風邪引くよ」と言った。


 狩るの、家に帰ってからでもいいよね――彼女は俺を自分の家へ上げると、シャワーを浴びるよう促した。服は洗濯するからとも。俺は素直に従った。風呂場の戸を閉めると、彼女が去って行く音が微かに聞こえた。
 名前さんが住んでいるのは2LDKの貸家で、実際に入ったのは初めてだった。既視感を抱いたのは、此処も物が少なかったからだろう。彼女の実家と同じだ。玄関からちらりと垣間見た奥の部屋は、極端に私物が少なかった。日用必需品以外の物を置かないようにしているのかもしれない。そして、彼女の部屋からは彼女らしさが窺えなかった。普通、僅かな小物からその人の趣味が解るものだと思うのだが。それは俺が彼女のことを何も知らないのに似ているようで、それでいてその何もなさが彼女らしさであるようにも思えた。
 浴室も同様で、やはり必需品以外の小物は見受けられなかった。俺は言われた通り洗濯籠へ脱いだ服を放ると、そっと浴室の外へ出しておいた。蛇口を捻れば湯気と共に温かな湯が湧き出し、俺はそれを一身に浴びながらゆっくり目を閉じた。

 多分小さいと思うけどと言われて渡されたのは彼女のジャージで、恐らく高校の時の物だろうそれはやはり丈が足りなかった。浴室から出ると、ごうんごうんと洗濯機が揺れていた。俺は何をするでもなく辺りを見回し、彼女の姿を探す。
 名前さんはキッチンに立っていた。一定の速さでまな板と包丁の触れ合う音がする。ふうわりと味噌の香りが漂っている。彼女が料理ができることなど、俺は知らなかった。家事全般はできなさそうなイメージを持っていた。しかしながら、彼女が台所に立つその光景は不思議と見たことがあるようでもあった。小さな背。俺はその小さな背の彼女を、力いっぱい抱き締めた。リズミカルな音が止む。

 名前さんは、俺がヒーローを狩っていることを知っていた。そして――狩られたがっている。彼女はヒーローに愛想を尽かしていた。二年前は解らなかったことが、今ははっきりと解る。彼女は自分を嫌っていた。超能力者である自分を、それを利用してヒーロー活動を行う自分を。彼女の言葉がありありと蘇る――怪人になったら私を殺しに来て。

 小さな背をした彼女は、簡単に殺せてしまえそうだと思った。
 俺はずっと彼女を見上げていた。しかし今の彼女は俺の腕の中にすっぽりと収まってしまうくらいに小さく、細く、柔らかかった。彼女の髪に顔を埋めるように抱きすくめると、微かにシャンプーの匂いがした。彼女は俺の行動に驚いてはいるようだったが、嫌がったり、振り解いたりはしなかった。俺が何かを言うのをただじっと待っている。ぽたりぽたりと水滴が垂れ、彼女の髪や肩を濡らした。
 結局――結局のところ俺は、例え完璧な怪人になれたとしても、名前さんを殺すことなどできないだろう。例え、彼女が死にたがっているとしても。これは確信であり、決まっていることだった。俺は名前さんが好きだった。友達の名前さん。姉のような名前さん。大切な名前さん。そんな彼女を、俺は一人の女性として好きだったのだ。公園で出会った、あの日からずっと。
 殺せる筈がない。殺せるわけがない。
「泣き虫は卒業したんじゃなかったの」
「……泣いてねえよ」
 彼女の髪に顔を埋めたまま、俺はそっと目を閉じた。「泣いて、ねえよ」
 ふうん――そう呟いた彼女は、腹の上にある俺の手にそっと両手を重ねた。過去、俺の手を引いて歩いてくれた彼女のその手は柔らかく、そして暖かかった。

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