彼女に笑って欲しかったのだと。

 彼女がヒーローになってからも、俺と彼女の関係は変わらなかった。疎遠になることはなく、かといって親密になることもなく。どちらも一定の距離を保ち、相手に接していた。互いに会いに行くことはなかったが、それでも俺達の友情は変わらなかった。
 どうやら名前さんは俺に気を遣っているのか――それとも生来の性格からか、あまりヒーローとして活動していないようだった。時々、嫌々ながら例のランキングを見るのだが、どうも彼女のランクは一気に上がって徐々に下がってを繰り返している。
 俺はというと、結局例のヒーローの下に弟子入りをした。シルバーファング。弟子入り当時はB級だったが、やがて新設されたS級のランカーになった。ヒーローだということも、その中でも屈指の実力だということも気に食わなかったが、彼の技量は本物で、俺は奴の武術の業を全て盗むつもりで門下に入った。しかしシルバーファングに弟子入りしたのにはもう一つ理由があり、それは道場がZ市にあるからだった。
 ヒーローになった名前さんはやがてZ市に引っ越した。俺が思っていた通り、彼女はヒーローとしてさほど働かない。ニュースで見る限り、どうも偶然出会った怪人だけ退治しているらしい。俺は彼女の実力の程がいまいち解らないが、恐らく名前さんにとって怪人退治など造作もないことなのだろう。それなのに、名前さんは働かない。彼女がZ市に引っ越した件については、ヒーロー協会が名前さんが是が非でもヒーロー活動を行えるように、怪人の出現率の高いZ市に住まわせたのではないかという噂を聞いた。
 協会のやり口は気に食わないが、彼女がZ市に引っ越したことによって、俺がバングの道場の門を叩く切っ掛けとなったのは事実だった。Z市で暮らしていれば、いつでも名前さんに会いに行ける。俺はシルバーファングの元で着々と技術を身に着けて行き、半年も経つ頃には一番弟子となっていた。

 怪人になったら、私を殺しに来て。
 彼女の言葉が、いつでも胸の内に残っていた。名前さんが何を思ってああ言ったのか、俺には解らなかった。結局俺は、彼女のことを何も理解していないのだ。彼女がヒーローになった時、その気持ちも解らなかったのと同じように。
 俺は確かに、ヒーローとしての名前さんは憎んでいた。彼女の事情、主に家庭内の事情は解っているつもりだが、それでも彼女がヒーローとして活動しているかと思うと腸が煮え繰り返る思いだった。しかし、彼女を殺すかどうかと考えるのは、また別の問題になる。
 俺が怪人になったとして、名前さんを殺せるのか?
 ヒーローとしての名前さんは憎い。しかし、俺は彼女が好きだった。名前さんが何を思って殺しに来てなどと言ったのか、俺には解らなかったし、実のところ解りたくない。彼女の気持ちを全て理解してしまえば、俺という人間が、彼女にとってちっぽけな存在であることが明らかになる気がした。俺の中での名前さんは非常に大きな存在なのに、彼女にとっての俺は、せいぜい――昔馴染み。所詮その程度の存在なのだろう。俺ははっきりとそれを知りたくはなかった。
 彼女のことは知りたい。しかし、知らないままでいる方が良いのかもしれないとも思う。私を殺しに来てと言った名前さんは、何を思ってそう言ったのだろうか。

 結局のところ、俺は名前さんについてよく知らないのだ。彼女は自分を語らない。俺は元から頭が良い方ではないし、察しろと言われても無理な話だ。まあ、彼女が理解されたがっているかは知らないが。俺が知っている名前さんは、結局、俺の味方である彼女だけだった。


 俺はその日、偶然見掛けた名前さんに声が掛けられなかった。久々に会った彼女は、彼女でいて彼女でないように見えた。俺はあんな風に笑う名前さんを知らない。あんな風に、頬を紅潮させ、楽しそうにくすくすと笑う彼女を。
 隣に立つ男は、見知らぬ輩だった。自身の自転車を押しながら、名前さんの隣を歩くその男に見覚えはない。そして、男の方も、どことなく嬉しそうに見えた。
 ――彼女の隣に立っているのは、俺ではなかった。
 俺では、名前さんをあんな風に笑わせることはできない。俺は何も言えず、その場から逃げ出した。

 名前さんのことを知りたいと思う気持ちと、知りたくないと思う気持ち。その相反する気持ちは、どちらも俺の本心だった。俺は名前さんの全てを理解したかったし、俺以外の前で愉快げに笑う彼女など知りたくなかった。
 怪人になったら、私を殺しに来て。
 俺は彼女を殺せるのだろうか。簡単な手合せだった筈のそれが無性に気に食わなくて、いつしか乱闘騒ぎになっていた。あのひょろひょろした男の顔を思い出すだけで虫唾が走った。名前さんの隣を歩いていたあの男。あいつを殴るつもりで殴った弟子仲間の一人は壁に吹き飛んで、俺は周りの連中から非難を浴びることになった。どいつもこいつも煩わしい。どうせ、俺に勝てもしないくせに。
 気付けば俺はジジイに叩きのめされ、道場を破門にされた。

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