彼女は淡々とした声で喋り、

 あの人はその日、俺の前に現れた。
 俺はヒーローが大嫌いだった。ヒーロー番組を見ても、主人公であるヒーロー、ジャスティスマンよりも、悪役であるデビル伯爵の方が好きだった。彼らは倒されてもへこたれず、まっすぐに自分の野望に向かっていた。格好良かった。しかし、俺はその人、名前さんを見て思ってしまったのだ。
 ――まるで、ヒーローのようだと。


 当時の俺は、俗に言う虐められっ子だった。腹の立つ顔をしていたのかもしれないし、体格が小柄だったせいかもしれない。友達は一人もおらず、その日も公園で、一人本を読んでいるだけだった。誕生日に買ってもらった虫の本。俺のお気に入りで、何度も読み返した本だ。そんな俺に声を掛けてきたのがたっちゃんだった。
 人気者のたっちゃん。友達がたくさん居て、弱い者いじめが大好きなたっちゃん。名前は何というのだったか。あまり幸せな記憶ではないからだろう、覚えていない。
 たっちゃんが俺に声を掛けたのは、一緒に遊ぶ為ではなかった。いや、確かに「遊ぶ為」だったが、少なくともその「遊び仲間」の中に俺は含まれていなかった。俺はいつもいじられ役だった。たっちゃんが提案したのはヒーローごっこ。彼らはそれが大好きだった。たっちゃんはジャスティスマン。俺は怪人。たっちゃんの遊び仲間、さぶちんやよっちゃんは何の役をしていたかは覚えていないが、悪役でなかったことだけは確かだ。ヒーローごっこにおいて、悪役は一人居れば事足りるが、ヒーローは何人居ても良いのだ。
 絶対的多数を前に、俺は何も言えなかった。
 言わなかったのではなく言えなかった。今となっては、彼らが自分を都合の良いいじり役としか見ていなかった事ははっきりと解る。しかし当時の俺にとって、彼らは友達になってくれるかもしれない相手だった。我慢して彼らの言うことを聞いていれば、いつかは友達になってくれるんじゃないかと思った。いずれ俺が望むシナリオでごっこ遊びが行われる番が来るのではないかと、薄っすらと淡い期待を抱いていたのだ。子供の世界は狭く、俺はその狭い世界の中で生きていた。人気者が勝ち、嫌われ者が負ける、そんなごく当たり前の世界の中で。

「ジャスティスマン参上! とぅ!」
 ご丁寧にもジャスティスマンの怪人成敗BGMまで自分で口遊んでみせたたっちゃんは、そう言ってジャングルジムの上から飛び降り、俺を蹴ろうとした。当然、俺は避けた。そりゃ、俺だってこの「ごっこ遊び」を成功させるには、怪人役である俺が彼の蹴りを食らわなければならないことくらい解っていた。しかし、当たれば痛いのだ。そもそもヒーローごっこに乗り気ではなかったし、子供ながらに彼らの残酷さを薄々知っていた。たっちゃんの蹴りが俺に当たったとして、彼は露ほどの罪悪感も感じないに違いない。全てが全て、彼らの思惑通りにさせたいとは思わなかった。
 俺という目標を見失ったたっちゃんは地面に着地し、咄嗟に着いたのだろう手を擦り剥いたと言って怒り始めた。いや、もしかすると怒ってはいなかったのかもしれない。「俺が怪我をさせた」という事にして、俺を虐める口実が欲しかったのではないか。
「さぶちん、ちょっとガロウ押さえて」
 そう言ったたっちゃんは、嫌な笑いを浮かべていたように思う。

 さぶちんに押さえられた俺は、たっちゃんが再びジャングルジムへ昇っていくのを黙って見ていた。天辺で笑っていたたっちゃんの顔は、逆光のせいだろうか、ひどく歪んでいた。
 たっちゃんが飛び降りた。スポーツも出来たからだろう、彼は目測を誤ることなく俺の方へと足を向けていた。靴の裏が顔に押し付けられた。鼻が痛かった。咄嗟に左目は閉じることができたが、目玉を押し潰されたようで痛かった。唇の裏に歯が押し付けられて、痛かった。
 しかし、それらの痛みを感じたのはほんの一瞬だった。俺が鼻を骨折せず、間抜けに倒れなかったのはさぶちんが俺を羽交い締めにしていたからじゃない。通り掛かった名前さんが、たっちゃんを止めてくれたからだ。その、持ち前の超能力で。たっちゃんは弾かれたように後ろ様に飛び、さぶちんの腕は振り解かれた。俺が名前さんの存在に気付いたのはその時で、俺の方に向けて右手をかざしているその中学生が、俺の大嫌いなヒーローに重なって見えたのだった。彼女はヒーローだと、俺は漠然とそう思った。


 恐らくたっちゃん達には、何が起こったのか解らなかっただろう。もっともその時だけでなく、今でもずっと解っていないに違いない。名前さんは超能力を見せびらかしたりしなかったし、後から思えばその時だってとても上手く力を使っていた。俺だって、後から名前さんに教えて貰わなければ解らなかっただろう。見ず知らずの女子中学生に「弱い者いじめか」と尋ねられたたっちゃん達は、俺を置いて逃げていった。

 たっちゃん達の背中を見送っていた名前さんは、俺の方へ振り返ると「大丈夫?」とか「怪我はない?」とかは言わず、ただ一言「あれ君のなの」と淡々と言い、指を差した。その人の顔をよくよく見てみれば、近所に住んでいる中学生だった。名前までは知らないが、何度か見た覚えがある。そして女子中学生の指の先を追えば、俺の本が置きっぱなしになっているベンチが目に入った。
「うん」
「そう。私も虫、好きなんだ。一緒に読んでもいいかな」
 静かにそう言ったその人に、俺は頷くことしかできなかった。
 自分よりもずっと年上の中学生と二人でベンチに腰掛け、虫の図鑑を読む。最初、俺には何が何だか解らなかったが、彼女がたっちゃん達を追っ払ってくれたのだということと、その人が意外にも「凄いねえ」だとか「かっこいい」だとか呟くので、段々と楽しくなっていた。俺の周りには、一緒に本を読んでくれる友達なんて居なかった。俺は夢中になって、この虫はこうだとか、あの虫はああだとか名前さんに喋りまくった。俺の拙い解説に耳を傾け、相槌を打ってくれた名前さんは、随分と無理をしていたのだろうと思う。彼女は無口だし、テンションを上げることとは無縁な人だ。多分、俺を心配してくれていたのだろう。友達の一人も見受けられない俺を。それにもしかすると、自分が居なくなればたっちゃん達が戻ってくるとも考えていたのかもしれない。

「男同士の喧嘩に、割り込んでごめんね。本、読ませてくれてありがとう」
 名前さんはそう言って、自販機で買ったオレンジジュースを手渡してくれた。彼女の顔を改めて見上げると何だか無性に寂しくなって、咄嗟に俺は「ま、またね」と言った。名前さんは少しだけ目を見開いて、それからやはり淡々とした声で「またね」と言った。一緒に居る間、少しも表情を動かさなかった彼女がほんの少し微笑んだように見えて、ひどく嬉しくなったのを覚えている。

[ 508/832 ]

[*prev] [next#]
[モドル]
[しおりを挟む]



×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -