ふうわりと撫で上げる

 交尾しましょうよ。目の前に立った女がそう言った時、名前は耳を疑った。聴覚は良い方ではないかと自負しているが、脳内で正しく処理されなかった。しかし福本は名前の動揺もさして気に留めず、「ちょっと散歩しましょうよ」とでも言ったかのような澄ました顔をしている。まあ、彼女の顔は仮面に覆われているから表情は読めないわけだが、その雰囲気がやけに落ち着いていた。
 名前は彼女の言葉の真意を考えた。
 が、結局わけが解らない。無視しようかと視線を逸らしかけた時、再び福本が「名前さん、交尾しましょうよ」と言った。名前は福本を見る。福本も名前を見る。
「あの……解っているとは思うが、俺はヒグマで、君はシロフクロウなんだが」
「知ってるスよ」
 しれっと、福本が言った。何を馬鹿なことを、と彼女の目は言っている。彼女の黄色い目を見ていると、訳が解らなくなりそうだ。いや、実際なっている。というか、仮にも……お誘い、が、こんなに淡白でいいものだろうか。もっとこう、駆け引きがあるものなんじゃないのか? 名前がストレート過ぎる言葉に引いているのは確かだったし、福本が焦れ始めているのも紛うことのない事実だった。

「いいじゃないスか。別に減るもんでもないスよね」
 じりじりと距離を詰めてくる彼女は、肉食獣以外の何者でもない。彼女の言葉が本気なのだと、認めざるを得なかった。
「待て待て、話が読めない。すると何か、君は俺が好きだと、そういう事か?」
「言いませんでした?」
「聞いてないね」
 福本は後頭部の辺りを掻いた。柔らかな羽根が音もなくさわさわと揺れる。
「じゃ――」福本が言った。「好きっス、名前さん」
「だから交尾しましょう」
「言ったろう、話が読めない。俺はクマで君はフクロウ、俺は哺乳類で君は鳥類だ。それとも何か、野生から離れて馬鹿になったか? 君と俺とでは種を残せないだろう」
「知ってるスよ」福本は笑った。

 彼女が音もなく名前の手を掴み、自身の胸へと添えさせる。柔らかな膨らみからは彼女の鼓動が感じられて、名前は眉を顰めた。振り払おうと思えば振り払うことができるだろうが、彼女の目から目が離せない。福本はその鉤爪で名前の右腕をがっしりと掴んでおり、その手には徐々に力が込められていく。もっとも、痛いというほどではない。
「何の為に、こうして人の恰好してるんスか」
「園長の我儘に付き合っているからだろう」
「まあそうなんスけど」彼女の手に力が籠る。
「私のこと、嫌いスか」

「おい、話がずれているぞ。俺が君を嫌いだといつ言った」
「なら良いじゃないスか」
 鷲掴みにされた右腕は軋み出した。しかし、名前よりもよほど彼女の方が苦痛を感じているようだった。彼女の声には、痛みを必死で堪えているような、そんな悲痛な響きがあった。
「あんたと私は此処で出会わなきゃ、こうして話すこともなかったんスよ」彼女の両腕が震え出す。仮面越しに聞こえる福本の声は、涙で濁って聞こえた。「あんたも私も、今はクマとフクロウじゃない。どっちも人間みたいな恰好してるじゃないスか」
「ただ私は、あんたと愛し合いたい。それはそんなに駄目なことなんスか」
 彼女の両目が覗く暗い穴から、溢れ出した涙がぼろりぼろりと零れ始める。別に仔が欲しいわけじゃないんスと、そう自嘲気味に泣きながら笑う彼女がひどく愛おしかった。仮面に垂れた涙の滴をべろりと舐め上げると、彼女はその細い身を震わせた。空いた左腕で福本の腰を引き寄せると、彼女はただじっと名前を見上げる。猛禽類の目の鋭さときたら――なんて可愛らしい。既に泣き止んだようで、心のどこかでほっとする自分が居る。
「あー……俺と君の体格差から考えて、多分、君は物凄く辛いと思うんだが」
「はは。そんなの」
 福本が小さく笑い始めた。
「どうってことないスよ」福本は名前の右腕を離し、今度は首へ腕を回した。彼女の翼が俺の肩をふうわりと撫で上げる。「大好きっス、名前さん」

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