癒されたい道乃家

 あー、と気の抜けるような声が背後から聞こえてきて、名前はその丸い耳をぴくりと揺らした。
「道乃家さん」
「もうちょっと」
「……」
 あーあーと言葉にならない呻き声を上げながら、ヤツドキサーカスの団長が私の背中の毛皮に顔を埋めている。名前は溜息を吐きたいのをぐっと堪え、目を閉じた。私は石だ。石になるんだ。

 サーカス団団長の道乃家と、志久万を除いてはヤツドキ唯一の熊である名前の付き合いは長い。サーカスが創設された当時から、名前はこのサーカスの一員だった。もっともその頃は、こうして道乃家と口を利くことはできなかったが。恐らく名前のことを一番理解しているのは道乃家だろうし、逆に言えば道乃家のことを一番よく知っているのも名前だった。
 道乃家が志久万とサーカスの団員達との間に生じる軋轢に参って、こうして時々弱味を見せるのも、名前の前だけだった。
「あー……お前の毛はふかふかしてるねー、ほんと」
 そう言いながら、道乃家が名前の背後から腕を回し、腹辺りの毛を撫ぜる。
「っ……道乃家さん、」
「何? 変な所は触ってないっしょー?」
「……まあ」
 そうですけど、と名前が口籠ると、再び道乃家は名前の背に顔を埋め、「あー」と間の抜けた声を出した。彼の吐息が背面の毛から伝わってくるようで、名前は小さく身震いした。
 くすぐったいのと尋ねられれば、いやと否定する。

 別に、くすぐったいわけじゃない。ただ、その――。

「道乃家さん」
「何?」
 毛に阻まれて、彼の声はくぐもっている。
「あの、できれば、後ろから抱き着くのはやめて貰えませんかね」
「はあー?」
 少しだけ背後の圧迫感が薄れた。どうやら道乃家が顔を離したらしい。
「前からやったら本格的にセクハラになっちゃうっしょ!」
 セクハラだという意識はあったのか。妙なところで名前は感心した。
「俺はねー、名前のことは好きだけど、動物相手に盛ったりはしないの! 俺に彼女が居ないことはお前に関係ないの!」どうやら、互いの意図が噛み合っていないようだ。「それに、腹側は毛ぇ生えてないっしょ? それが一番重要なの!」
「……すみません」
「んー、解ればよろしい」
 そう言って、再び道乃家がぼすっと名前の毛皮に顔を埋めた。あーあーと気の抜ける声が聞こえてくる。

 ――名前のことは好きだけど、動物相手に盛ったりはしないの!
 解っていたが、はっきり言われてしまうと流石に気が滅入る。人間の雄が雌の胸部に対し並々ならぬ警戒をしているのは知っているが、熊である名前としては、道乃家の顔の見えない背後からより、前側から抱き締めて欲しいと思う。それにこの体勢は――交尾のそれと、よく似ているのだ。もちろん道乃家にその気はない。発情期ではないが、人型をしている今、妙に意識してしまう。
 名前はおそらく、人として、友として、男として道乃家を好いていた。彼にとってはサーカスの一動物でしかないのだが、この姿だと次から次へと物事を考えてしまう。――もしかして彼が自分の気持ちを受け入れてくれやしないだろうかとか、そういうことを。
 今度こそ、名前は隠さずに小さな溜息を吐き出した。

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