酔いどれ


 久方ぶりに、「前の」名前で呼ばれた気がした。
 そんな馬鹿なと、そう思うのは尚早だ。ここは地下の秘密基地ではなく地上で人間の住む町。そして偶然にも、怪人になる前に生活していた場所のすぐ近くだった。自分を知っている人間が、居るのかもしれない。ホームレス帝が振り返ってみれば、一人の女が立っていた。顔が赤い。酒臭い。
 やっぱりそうだあ、と、女が再び私だった男の名を呼ぶ。
「髪が伸びてたから、見間違いかと思いましたよお」

 えへらえへらと笑う女。
 元同僚の女だった。名は名前。名前が解る程度には関わりがあった。例の新入社員歓迎会の中でも、私を見て戸惑った顔こそしたものの、笑ったり、セクハラなどと騒ぎ出したりはしなかった人だ。普段から誰かれなく優しく親切で、私に対してもそれは変わらなかった女。
 ただ、覚えていた彼女の姿とは、少し違う。ホームレス帝の知る名前はいつもてきぱきとしたしっかり者で、微笑むことはあってもこうして満面の笑みで手を振るなどということは決してしない女だった。
 酔っている。
「大丈夫れすかあ?」
「それは君の方じゃないかね」
「ははぁ……酔ってないですよおーだ」
 けらけらと笑う名前。
 ホームレス帝は毒気を抜かれた。つい先ほどまで、ホームレス帝はふらふらと街を彷徨いながら、いかに人間が愚かしい存在か再確認していたのだ。喧嘩を吹っかけてきた連中は、一人残らず殺してやった。抗う間も与えぬまま。しかし、この女を殺そうとは思わなかった。むしろ、こうして人間の街を歩いていること自体が馬鹿馬鹿しく思えてきた。

 仕事熱心で実直な彼女も、こうして呂律が回らぬほどに呑むことがあるのか。いや、考えてみれば彼女は酒に弱かった気がする。呑んでいる場面をそれほど見ていない。
 普通なら、ホームレス帝のその容姿を見て驚くだろう。薄汚れ、着古されたぼろぼろのジャージを着ているその様はまさにホームレス。段ボールでも手にしていたなら完璧だ。そのホームレス帝の姿を見て何も言わないのは、彼女が空気を読める能力に長けているからじゃない。服装が気にならないほどに、彼女が酔っているからだ。
「心配してたんれすよお。あんなクソ上司のせいでぇ、辞めることになっちゃってえ……」
 もごもごもごと、それから先は言葉にならなかった。これは予想の範疇を出ないが、上司に対する罵倒だったのではないか。ホームレス帝は自分に恥辱を味わわせ、リストラさせられる原因を作った上司を思い出した。確か奴は、周りの社員にも嫌われていたっけ。セクハラだの何だのという噂も聞いたことがある。目の前の女も、そうした被害に遭っているのかもしれない。そう考えると、ホームレス帝の中に不思議と苛立ちが湧き起こった。あの男に対する憎しみは、とうに失せたものと思ったのだが。
「でもぉ、」名前が言った。
「思ってたより元気そうで、ちょっと安心しましたよぉ」

 にこにこと、まるで心の底から嬉しいとでも言うように。
 ホームレス帝は目を細めて、目の前の女をまじまじと見つめた。そういえばこの女、よくもまあ自分を元同僚だと見抜けたものだ。服装だけではなく、何から何まで以前の冴えない会社員とは違っているというのに。髭だって伸びているのに。
 他の連中のように、物騒な能力でなくて良かった。ホームレス帝はそう安堵する。神に与えられたその絶対的な力は、絶対的だからこそホームレス帝に被害が及ばない。例え前後不覚になるほどに酔っていたとしても、ホームレス帝が血まみれだったとしたら、いくら彼女でも声を掛けたりはしなかっただろう。それならやはり、私は神に感謝すべきなのだろう。酔いの冷めたこの女がどういう行動に出るかは解らないし、彼女と会うのはこれっきりだろうが、それでも。
「君は変わらないな」
 ため息混じりにそう言えば、名前は「酔ってないれすよぉ」と、けらけら笑った。笑い上戸にも程があるんじゃないか。


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