ぼんやりと眺めながら、名前は思った。何だあれ、何が起きた。
 ハゲがパンチをくり出したと思ったら、海人族の腹に大きな風穴が空いていた。な、何を言ってるか解らねーと思うが俺も何を見ているのか解らなかった。青痣が出来るとか骨が折れるとかそんなもんじゃ断じてねえ。もっと恐ろしいものの片鱗を――。
 名前が解ったのは、海人族との戦いに決着が着いたらしいということだけだ。

 再び、めり込んでいた壁から抜け出す。耳に溜まった血を(もう凝固していて、指には赤黒い粉がぱらぱらと着いているだけだった)掻き出していると、近くに居た一般人がぎょっとして目を見開いた。皆が皆、幽霊でも見たような顔をしている。
「あ、あんた生きて――!?」
「ははは。この通りぴんぴんしてますよ。丈夫さだけが取り柄なんで」
 服に着いた汚れをはたきながら言うと、別の男が「いやいやいやあんた腹貫通してただろ!」と叫んだ。
「まさか。だったら生きてるわけないじゃないですか。皆さん集団催眠にでもかかったんじゃないですか?」
 先の男は「いや、でも」とごにょごにょ言っていたが、段々と自信が無くなっていったようだった。何せ服には穴が開いているが、その先にある筈の傷がまったく見受けられないのだ。みんな生きるか死ぬかの瀬戸際で、パニックに陥っていたのだと思えば納得できないこともない。見間違いだったのだろうかと彼らがざわめいている横で、見間違いなわけねえだろと内心で思っていた。
 名前はそっと人混みに紛れ、壁に開いた穴から素早く外へ出た。倒れたヒーロー達だって、これだけの人が居るのだからどうとでもなるだろう。怪人が居ないのであれば、さっさと退散したい。帰ってゲームしたい。そして二週間は引き籠りたい。うっかり海人族の死体を見てしまい、名前は顔を顰めた。それから、視線の先に立っていた男と目が合った。驚いたような顔をしている。
「おっぱい見えてんぞ」
 うるせえハゲ。

 ハゲ頭のヒーローは、困ったように頬を掻いてから、自分が付けていたマントを黙って貸してくれた。何だ良い奴じゃないか。有り難く借りることにする。何せ一張羅のスーツは何度も叩き付けられただのぼろ布と化していたし、その下のワイシャツには大穴が空いている。血に染まっているのもマイナス点だ。名前にだって、羞恥心というものはあるのだ。
 男が貸してくれたマントを体に巻き付けると、多少見栄えが良くなった。まあ、春先に出没するような露出狂と大差はないわけだが。礼もそこそこに、名前はその場から退散した。
 坊主頭のヒーローの名を聞くのを忘れていた、と名前が気付いたのは、M市へ向かう電車に乗り込んだ時だった。坊主頭のヒーローことサイタマも、自分が誰であるのかを名乗るのを忘れていた。名前は早く帰りたい一心だったし、サイタマの方もサイボーグのヒーロー、ジェノスを助け起こすのに気を取られていたからだ。
 まあ、ヒーローなら探せば見つかるかな。
 楽観的に名前はそう考えた。それよりもまず、住み慣れた我が家に帰りたい。そして死ぬほど寝て、死ぬほどゲームがしたい。


 マンションの二十二階に辿り着いた時、名前はほとほと疲れ果てていた。鍵をガチャつかせながら、玄関にある靴に少しも注意を払うことなく部屋に入る。身に纏っていたマントをやっとのことで取り払うと、ぞんざいに畳んで椅子の背凭れへと掛けた。ベッドに倒れ込みたいのを堪え、代わりに長々と溜息をつく。今日は長い一日だった。それからやっと、名前は此方を見て凍り付いているキングに気が付いた。
 やべえ。

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