『またいらしてくださいね』
「ああ、そのうちな」
『はい』
「じゃーな」
わかれの言葉を口にすると、そいつはいつもさみしそうに笑った。だから俺は、案外こいつも俺のことを愛しているのではないか、なんて自惚れたりするのだが、それはやはり自惚れの範疇をこえないのである。
それでも、店の男にやいのやいのいわれたって俺が消えるまでずうっと待っていてくれたときには、本当にふりかえって手をひいてつれだしたくなったものだった。
けれどあそこはおそろしいところで、江戸とは切りはなされたみたいにべつの国なのである。ふけば飛ぶような夢でつくられたユートピアみたいなものなのである。
だから、あそこで生きた時間はぜんぶまやかしであり、現実ではない。そうするとあいつの言葉もまやかしで、俺の気持ちもまたしかり、だとよかったのだけれど、この国をでたって仕事をしていたって、脳はささいなきっかけであいつのことを思いだしやがるんだからこまったものである。
けれど、そんなことを理解するのはせめてこの国をでたときだってよいだろう。
ぴちゃり。雨がふる。それはたった一滴の雨粒からなるのだが、気づいたときにはもうあたりぜんぶを侵食している。黒のブーツで蹴ったコンクリートが濃いグレーに染まっていた。もちろん傘なんて持っていないので、俺はそのまま雨にうたれて歩く。
あいつはまだ俺を見ているのだろうか。だとしたら、俺とおんなじように雨に濡れているのではないか。そこで俺ははじめてうしろをふりかえったのだが、彼女はもうどこにもいなかった。はは、と笑う。
けれど、視界のはしの若い男に(それが昔の友人に見えた気がしたがきっと気のせいだろう)うでをひかれる遊女の姿をあいつだと確信したときは、どうにもこうにもあいつのとなりにいきたいと、馬鹿みたいに思ってしまったのである。
どしゃ降りの雨に、つめてえなあ、と、ひとつ悪態をついてまた歩きだした。今度はふりかえらない。
「まったくよぉ」
どうにもこうにも、空を飛ぶ勇気がほしいものである。
やけに雨が降る日だった