漆
何処に行くつもりなのか分からぬまま、元就は横抱きにされて碇槍に乗り、今は海の上を駆けていた。
「あの後大変だったなぁ、お前は熱出して倒れるし、“これ以上滞在出来ない”って親父さんは無理矢理お前連れて帰るしで…。」
かつて弥三郎と呼ばれていた男は、懐かしそうに、その隻眼を細めながら喋り続けている。
だが、元就にその言葉は殆ど入って来ない。
「何故、殺さない…。」
未だ収まらない吐き気をこらえ、元就は問い掛ける。
元親の、この行動の意味が解らないからだ。
天下を取るつもりなら、誰を屠れば良いのか位分かっている筈だ。実際、元就を殺す機会は何度もあった。
「…着いたぜ。」
そう言い、元親は元就を抱き抱えたまま、目の前にある安宅船に乗り込んだ。
船の中は誰も居ないのか、ひっそりと静まり返っていて、元親の足音だけが響く。
そして、辿り着いた先は船底にある一室。
そこに敷かれている筵の上へと、元就は横たえされた。そして、鎧が外され、装束のみとなる。
「俺はな、松寿、天下を取るつもりは無えんだ。」
元就の髪を弄びながら、元親はそう呟いた。
触れられるだけで酷く頭が痛くなり、吐き気をもよおす。ろくに抵抗も出来ない為、嫌でも相手に身を任す他ない。
「でも、天下を取らせたい奴が居る。」
続けざまに聞いた名は、元就も知っている人物のものであった。
「そんでよう、そいつに“中国はどうすんだ?”って聞いたらな…。」
元親の手が、今度は頬に触れてきた。
「“毛利元就の首を取る。”って…、そう言ったんだ。」
指が唇をなぞっていく。
「下手に生きていちゃあ不味いんだと。」
そして、両手で頬を包み元就に軽く口付けた。
「大きくなり過ぎちまったんだよ、国も、お前も…。野心なんか無くても、有るんじゃないかと思わせる位にな。」
元就の襟を開き、その細い首筋を撫でる。
「アイツはお前の首を見なきゃ、納得しねえ。だからな、松寿。」
柔らかい部分を舌で舐め上げる。
「一つになろう。」
そして、元親はそこに歯を立てた。
「!!」
元親は、ゆっくりと元就の首を噛み切っていく。
激痛が元就を襲う。
狂気染みた行為。だが、何故そんな甚振(いたぶ)る様な真似をするのか、元就は分かっていた。
『血を飲んでおる…。』
おそらく一気に血が噴き出す事を防いでいるのだろう、自分の全てを己へと取り込むつもりなのだ、この鬼は。
『鬼…か。』
何故忘れていたのか、それは、自分を保つために取った行為だったのか。
『初めから鬼であったではないか…。』
その美しい外見で人を騙し、内に在る醜い本性を眩ます。
あの時の事を憶えていれば…。と思っても、今更である。
『鬼の糧となるか…。』
薄れて行く意識の中で、元就は只。
『つまらぬ最期よな…。』
とだけ思った。
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