水の中の透明


 その日は夜中まで三年ろ組の迷子二人がまた見つからず、作兵衛からの要請で二人を捜すために学園内を走りまわっていたときだった。
 夜中の学園は賑やかな昼間とは違ってどこまでも静かな、ひっそりと静謐な空気を漂わせていて俺は自然と走る速度をあげていく。偶然なのかその夜は満月で夜中なのに明るかった。忍者にとって、月は忌み嫌うものだけど迷子を捜すのには好都合で少し月に感謝した。
 走っていくといつも会計委員が夜の鍛錬で使っている池が近づく。もしかしたら、左門が何か血迷って池に居たりして。と走る速度を緩め、池を覗き込んで見る。
 夜中の迷子捜しからの現実逃避だったから内心は池の中なんかに誰もいないと思っていた。真冬だし、流石に。だから何もしていないのに波紋が広がり、ぬっと人が出てきた時には凄く驚いた。

「うわああああ!!」
「……誰?」

 ぽたりぽたりと水滴を垂らしながらそう訊くその人は、鮮やかな桃色を纏っていて、くのたまだと分かった。けれど顔は前髪で隠れていてよく分からない。
 取り敢えず、幽霊とかじゃないことに安心しつつ思わず池の前で正座をする。……同学年や後輩と一致しないから多分、先輩かな。

「三年は組の浦風藤内です」
「ん、ああ……作法の子ね」

 水から出ないまま目の前の先輩は前髪をあげる。やっと見えたその風貌になんとなく既視感を覚える。なんだっけ、俺はこの顔を見たことあるような。誰かと結びつきそうだけど結局、結びつかない。
 そんな俺のもやもやを知らない先輩は俺をじっ、と見つめる。少しだけ気まずかった。

「こんな夜更けに、何しているの?」

 それはこっちが聞きたいけど、ぐっとこらえて多分、有名だから知っているでだろう迷子の名前を出す。するとああ、と先輩はやけに青白く細い指を六年長屋の方に向けた。

「会計の子なら、そちらの方に行ったよ」
「え……あ、ありがとうございます」

 六年長屋なら、すぐ近くで、本当なら早く行かなくきゃいけないし六年生の先輩方に迷惑がかかってしまう。けれど俺は何故だか動けずにいた。目の前の先輩から目が離せない。先輩はなにか人を引き込むような力を放っていた。
 俺と先輩どちらも言葉を発さずに場は沈黙に包まれる。ちゃぷんと先輩が動く度に聞こえる水の音が妙に頭の中に響いてきた。

「……何か、私に用があるの?」
「え、あ……」

 当然と言うか、いつまでもここから去らない俺に不思議に思ったらしい。先輩は首をこてりと軽く傾げる。
 何か言わなければと思うけど言葉がなかなか見つからない。色々探して出てきた言葉はさっきから気になっていて、でも質問しにくいものだった。

「……ここで何しているんですか」
「ああ、そんなこと」

 池の水を手で掬いなが先輩は一言、探しているの。そう答えた。

「……何を探しているんですか」
「涙」
「……え」
「涙を探しているの」

 その言葉を聞いてまた既視感を覚える。こんな会話が成立しないような人が俺のすぐ近くにいた気がする。誰だっけ……?

「……見つかるといいですね」
「うん」

 見つからないと思いますけど。そんな言葉は呑み込み、俺はただ先輩が水を掬いじぃっと見つかるはずのない涙を探しているのを眺め続けていた。
 どのくらい経ったんだろう。ずっと遠くの方から数馬の声が聞こえる。後ろへ振り向くと豆粒程の小さな数馬が見えた。俺は数馬に手を振り本来の目的を思い出して慌てて立ち上がる。挨拶くらいはしておこうと池の方を振り向くと、そこには誰も居なかった。

「え……?」

 先輩の影もなく、そこにはただ微かに池に広がる波紋しかなくて背筋が凍るような気がした。急いで数馬のところまで走って忘れようとするけどあの不思議な先輩はどうしても頭から離れなかった。俺の顔を覗き込んだ数馬は怪訝そうな、そして心配そうな表情を浮かべた。

「藤内、顔が真っ青だけど大丈夫……?」
「……大丈夫。少し体が冷えただけ」
「えええ!? 風邪引いちゃうといけないから早く風呂はいって寝よう!」
「大袈裟だよ。それに迷子を捜さないといけないだろ。左門は六年長屋にいるって」
「もうとっくのとうに作兵衛が見つけたよ!」

 数馬に手を引かれながらもう一度池の方を見る。やっぱり誰もいない。あの先輩はなんだったんだろう。もしかして、幽霊とか?

「まさか……」
「ん? 何か言った?」
「ううん、何でもない」

 後日、綾部先輩にあの先輩のことを話したら、綾部先輩の遠い親戚な五年生の先輩ということが発覚した。良かった幽霊じゃなかった。
 そう言えば顔もそうだけど中身が誰かに似てると思ったのは綾部先輩だったのか。納得。

20120301
先輩が泣いていたとは気がつかない藤内